ART of book_文庫随想, ART of work_編集者ヨシヒコの知的冒険

『レトリック感覚/レトリック認識/レトリックの記号論』_高校生の私にプレゼントしたい本

レトリックを弄するとは、あまりいい意味で使われないことが多いようです。
レトリックという言葉には、現在「口先だけの」とか「軽い」とか「うわべだけの」というイメージがつきまといます。

高校時代、現代国語の教科書に、小林秀雄の『西行』がありました。
西行の歌を、技巧に凝っておらず、洗練されてはいないけれど、より人間の本質を謳ったもの。
一方で藤原定家の歌は、美しいけれど、技巧に凝りすぎている……まあ、そんな感じで論じていたと思います。

私もまだ10代ですから、小林秀雄がそういった意味で書いているのだから、それが正しいと素直に受け入れてしまいました。
レトリックに否定的なイメージがついた瞬間、と言っていいでしょう。

文章は簡潔な方がよい、短い語句に魂を込めるもの、と早計してしまったのです。

建築雑誌から編集者をスタートした私は、新人を鍛えるニュース記事で、さらにその傾向を強めてしまいました。
たった15W×32Lのニュース記事に、どれほどの赤字を入れられたことか。
5W1Hをきっちり入れることはもちろんのこと、事実を事実のまま伝える(つまり根拠の乏しい私的見解は一切排除する)文章を書くことを鍛えられたのです。

しかしその後、車雑誌でクルマのインプレッションを書くようになり、それだけでは読者にうまく伝わらないということに気がつきました。
そこで、20代後半からいろいろ試行錯誤して、新たな境地を模索したのです。
それをレトリックを弄した文章と言われれば、まさにその通りかもしれません。
クルマとはまったく関係ない、自分の得意分野から我田引水したような論を進めることもしばしば。
(クルマのデザインに茶器を引用したこともありました……汗)
あの手この手で、自分が受けた感動を文章にして、読者に伝えようとしていたのでしょう。

「……私たちは、文章一般が非簡潔、不正確、無駄だらけであってはいけない……というもっともらしい統一型教訓を、いったいいつから(というより、いつまで)真に受けることになったのだろう。──中略──こんにちの私たちの文章感覚は、明治の末、豊満と多彩のがわから美を奪って簡潔と明晰のがわへうつしかえて以来、ほとんどそのまま、本質を変えてはいないと言ってよい。いや、そうではなかった……むしろ、私たちは、豊満と多彩のがわに美を置いてけぼりにしたまま、簡潔と明晰のがわへ乗り換えたのであった。すなわち、美の概念はほとんど不要となり、美文は「美文調」となった」

美文調ですらない文章も目立つ今日の雑誌。
ネットの記事はいわずもがな(もう、読むに耐えない……このブログもしかり)。
そんなわけで、雑誌での執筆だけでも、きちんと襟を正してレトリックを駆使して美文に仕上げようと思った三冊。

『レトリック感覚』『レトリック認識』『レトリックの記号論』:佐藤信夫/講談社学術文庫