ART of book_文庫随想

『晴れた日は巨大仏を見に_ジョーシキって何?』

巨大仏と巨大パラボラアンテナは同義です

先日、とあるイベントの取材の際に女性のプロドライバーを紹介してもらったときのこと。イベントが終了した後、彼女は長野県までパラボラアンテナを見に行くという(彼氏と一緒に)。たぶん、そのパラボラアンテナは、JAXAの臼田宇宙空間観測所のことと思われ。

なにかのついでではなく、パラボラアンテナそのものを見に行くために富士スピードウェイからクルマを運転して長野へ向かうとのこと。

思わず、「巨大仏もひょっとして好きだったりします?」と尋ねずにはいられませんでした。そしてその答えは予想通りのイエス。

そこでつい、「おすすめの本がありますよ」と紹介したのが、今回の文庫というわけ。

そしてこんな文庫本を読んでしまっているあたり、何を隠そう、私も巨大パラボラを見るためだけに長野に行ってしまう人の気が知れるのです。

つまり、巨大パラボラアンテナ=巨大仏=巨大建造物が好き、という公式が成り立つのです。

話は変わって、宮田珠己氏の文庫に出会ったのは、ブックオフの100円コーナーです。ここ最近、知らない作家に出会う場所=ブックオフということが増えています。もちろんこの文庫も100円で購入させていただきました。100円ならお試し価格として、ドブに捨てても惜しくありません。いまどき、缶コーヒー1本だって買えないのですから。

宮田氏の文庫は、これまでに2冊読んでいます。そのひとつが四国霊場めぐりの『だいたい四国八十八ヶ所』。そして『旅の理不尽』。

疲れているときに読むのにちょうどよいのです。単に「平易」「面白い」ではなくて、きちんと哲学されているところがいいのかもしれません。記憶にも残らず、魂が震えることもなく、浅い人間関係のドラマが描かれた流行作家の小説を読むより、よっぽど大人の読み物です(と書くと褒めすぎ?)。

そもそも読書というものは、自分とは違う価値観や知らないことを知り触発される効用と、同じ考えや見方の人がこの世の中にいることを知り安心する効用があります(あくまでも私の場合)。

「へえぇぇぇ〜、知らなかった、そーなんだぁ、納得」という効用と、「そうそう、それそれ、俺だけじゃなくてよかったー」という効用。

宮田氏の文庫はその後者。

巨大パラボラをわざわざ見に行く奇特な女性の存在にシンパシーを感じて、自分が変人でないと安心してしまうのと同様なのです。

巨大仏を見て、既成概念を疑う

この文庫では、坂口安吾の『日本文化私観』が時折引用されます。平等院鳳凰堂や法隆寺なんてぶっ壊しても構わない、という有名なあれです。

宮田氏は、坂口安吾のこうした主張をヒントに、次のように考えられるかもしれないと導き出しています。

人が風景の意味を無視しようとするのは、風景の中にしみこんでいる今の世界のルールを取り払い、原点(ふるさと)に戻って、もう一度世界を認識し直そう、意味や伝統にとらわれず、シンプルに、しかし本質的に世界をみすえてやろう。そんな気持ちになっているからである。

(P263)

学生時代に読んだ『日本文化私観』のあらすじはすっかり記憶から抜け落ちていますが、平等院や法隆寺なんてなくなっても問題ない、という部分だけはよく記憶しています。

私にとってのそれは、「既成概念を疑え」というメッセージでありました。体制側の予定調和なんてくそくらえ! ということだったかもしれません。日常の当たり前と思っていることが、実は巧妙に仕組まれていることかもしれないゾ、と疑う目を持つことを促すものでありました。

巨大仏は平等院や法隆寺と違って、美術史的にも建築史的にもまったく評価されていません。それどころか、風景の調和をこれでもかとぶっ壊している存在です。

だから、『日本文化私観』のように取り壊して停車場にでもしてしまえ、ではなくて、そこにあるからこそ自分の常識の根底を揺るがしてくれるのです。

この文庫で紹介されている牛久の大仏や久留米や高崎の大観音、PL教団の大平和祈念塔を初めて目にしたときに受けた「ゆらぎ」の感覚は今でも覚えています。それは、中国自動車道を通るたびに横目に見る太陽の塔から受けるものと同質です。

風景に溶け合わない、むしろ異物感があるからこそ、巨大仏や巨大パラボラアンテナに惹かれてしまうのです。それは既成概念を揺るがしつつ、いかに自分の存在がちっぽけであるかも教えてくれるものなのです。

代々木にあった予備校の窓から日に日に高さを増していく都庁を見ながら、「まるでバベルの塔だなぁ」としみじみしていた浪人時代を思い出した一冊。巨大建造物は傲れる人間の心を戒めてもくれるのです。

『晴れた日は巨大仏を見に宮田珠己/幻冬舎文庫

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