ART of book_文庫随想

『持たない幸福論_自分の言葉とは』

読書すればするほど、文章を書きたくなるか否か

本を読めば読むほど、自分が思いついたこと、考えたこと、その他もろもろ、既に誰かが書いていたということがわかり、若い頃はモノを書く意味を見出せなくなっていたものです(先達の本を読めば済むことだから)。

その意味では、20代半ばから40代半ばまで、とにかく雑誌を作る(企画立案する、ディレクションする、書く、撮る、ラフをひく、デザインする、営業する…その他)ことに追われて、仕事に直結しない趣味の読書量が激減したのは、実は幸いだったのかもしれません。なぜなら、とにかくなんの迷いもなく書いて書いて書きまくることができて、校了することができたから。いちいち書くことの意味なんて考えてたら、出版事故になってしまっていたことでしょう。

しかし、読書すればするほど、私のように自分が文章を書かなくてもいいと思うのではなく(だって、この世の大切なものは、たいてい既に文章化されている)、むしろ書く意欲が湧いてくる人もいるんだなあーと、いうことがわかりました。きっと世の中的には、こうした人のほうが大切かもしれません。自分を高めるだけでなく、それを誰かにやさしく伝えようというわけですから。

自分の好きな著者たちの、良い部分を抜き出して真似してミックスして、それを今風に読みやすく平易な口調で書き直したら良い本になるんじゃないか。今度はAさんみたいにかいてみようか。次はBさんとCさんをブレンドしてみよう
そんな風に考えていくと、書けそうなことはいくらでも出てくる。自分独自のオリジナリティを出したいとかはあまり思わない。抑えようとしても自然に出てしまうのが本当のオリジナリティだと思うからだ。自分は過去の名作のリミックスをし続けるDJ で構わない。全ての表現は先人の模倣や継承に過ぎないからだ。

持たない幸福論(P214)

エライなと思うのは、引用した読んだ本のネタバラシをしているという点。論文などでは引用や出典先を明記するのが当然だから当たり前といえば当たり前ですが、世の中には、すべてが自分のオリジナルであるかのように振舞って書かれているものがたくさんあります。

しかし、個人の思想や美意識、スタイルは、ゼロからある日突然生まれてくるものではなく、人として文化的な生活や教育のなかから得た先達の知恵の上に成り立つもの。そう考えると、教育や学びなどというものは、知識の系統発生とも考えられ、自分の血肉となった先達の言葉というものは、もはや自分のものと考えてよいのかもしれません。そうでなければ「知」は進歩しない。

それに、自分の考え全てに引用先や出典先を付けていたら、本文の何倍もの脚注が必要となるでしょう。それこそ、それだけで広辞苑ぐらいの厚さに。

というわけで、先人の書物をわかりやすく現代の言葉や状況に置き換えるというのは、割といつの世にも行われていることで、先に書いたようにそれ自体は意義あることです。

経験に裏打ちされた文章だけが持つ力

ただし、ひとつだけ注意する点があって、モノを書く場合、自分で経験・体験したことがないことをいくら書物などから引用しても、人の心には届かないということです。

たとえば、報道を例えにすると簡単です。実際に現場で取材したネタをもとにした記事は、やはり真実味が強く、人の心に届くのです。危険な紛争地で取材する記者には、こうした理由があります。実際にその場で掴んだ情報でない、二次・三次情報は、操作された情報であることもしばしばあるので、注意が必要です。

もっと身近なところだと、紀行文や食レポでもいいでしょう。実際に現地を旅した人の紀行文や食べたことのある人の食レポは、たとえ自分とは違う見方であったり味覚であっても、なるほどそうした意見もあるのかと肯けます。

しかし、だれかの言葉、いまならネットで拾ってきたレビューをまとめたような原稿は、読む人が読めばバレバレだし、まったく文章に力がありません。
それはただの記号による情報で、人の心にまでは届かない。

というわけで、本書のサブタイトルである「家族を作らない」という点においては、筆力は途端にトーンダウンしてしまうのです。それもそのはず、本文中で筆者も認めている通り、結婚もしていなければ子供を持ったこともないから。ネットや書物、あるいはきっと友人の言葉などを総合して想像で書いているんだろうなということが、よくわかります。

ニートやシェアハウスなど、ご自身が経験したことのある事柄に対しての件は面白いのだけれども、「家族を作らない」というところだけは、私と意見が違うとかそういうレベル以前の問題なのです。この一点のみの不完全さのせいで、書いてあることすべてが戯言めいてしまうのです。むしろ触れなければ、面白おかしく読めたのに……。

若いころ、ひとりでいろんな大陸を放浪することが好きだった。いろんな大陸といっても、あの時代の日本人があこがれていたヨーロッパやアメリカではなく、南インドのドラヴィダ系の人びとの村や、スリランカの東海岸の小さい漁村とか、メキシコの深い南部やグァテマラの高地のマヤの末裔の村々や、チチカカ湖の湖畔や湖上のケチュアやウーロの集落だった。

持たない幸福論(P230)見田宗介解説

この文庫本の解説は、上記の文から始まります。実はこの文庫は、見田氏の解説を最後に読むことで完結するといってもいいでしょう。

解説の冒頭で、見田氏は宣言しているのです。つまり自分はフィールドワークを経験して、現在の境地に到達したのだ、と。書物だけでなく、実際に見聞して知識を確固たる思想にまで高めたのだと。

そして、この本は、いろいろな人のいいところを抽出して簡単な言葉で書かれているので、これ以上は解説のしようがない、ゆえにやさしい本文にむつかしい解説をつけてみようといった内容が続きます。

そのむつかしい本文の解説を読み終えると、ちょっと嘘っぽく感じ始めていたものが、真実味のあるもに思えてくるのです。つまり、多くの経験を積んだ人が、もう一度本文を難しく解説することで、説得力が増す、という仕掛けです。

いやはやなんとも素晴らしい構成。編集の妙を感じさせます。

サブタイトルに「家族を作らない」という項目を入れたほうがインパクトがあり、実売数は増えるでしょう。でも、そのテーマはこの文庫本の筆者には荷が重すぎる。結婚しておらず家族を作った経験がないので現実味が出ない。そこを解説で補完する。このアイディアが編集者によるものか筆者によるものなのか、それとも偶然の産物なのか、それは知る由もありませんが、一読者としては読後感が大切なので、そこは実はどうでもいいことです。

昭和世代の人間にとっては、夜討ち朝駆けで掴んだ情報の記事や時間を掛けて取材したルポだったり、そんな文章に力を感じてしまいます。WEBの情報を拾い集めてそれを集合知としてしまうのには、いまだにちょっと抵抗があります。きっとそれは、「金銭」が絡んでいることも理由のひとつです。

ということで、WEBだろうが紙だろうが、結局、人の心に届くのは、「経験」した「人」が自分の「言葉」で書いたものであることがわかった一冊。インターネットの世界が広がって、人の思考がどのように変化し、知の集積がなされていくのか、それは引き続き。

『持たない幸福論 働きたくない、家族を持たない、お金に縛られない』pha/幻冬舎文庫

理系の人は刺さりそうな、そんな表紙デザイン。

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