ART of book_文庫随想

『哲学の教科書_人はなぜSNSで私生活をさらけ出すのか』

うまくいけば、キアラのようなインフルエンサーになれる!?

facebookをはじめ、Instagram、YouTubeその他で、どうして人は自分を晒け出すのか、長年その理由について考えてました。

承認欲求というただ一言だけでは済まされない、なにかもっと人の根源的なものが関わっているんじゃないかと。

そのヒントになるかもと思って見たドキュメンタリー『キアラ・フェラーニ〜アンポステッド』。キアラというイタリア人インフルエンサー、まったく知らなかったのですが、彼女の結婚式はヘンリー王子とメーガン妃の結婚式と同等の経済効果があったとか。

素人女子が始めたブログが、ビジネスとして成立するまでに成長するサクセスストーリー。私生活を晒け出すことが、ビジネスとして成立するなら、それもありでしょう。

しかし、ビジネスのためでなくても多くの人がSNSなどに私生活を晒すのはどうしてなのでしょう。ちょうど読んでいた文庫『哲学の教科書』に、その答えになるかもしれない一節がありました。

自分自身に「なる」こと
ここに、最高の自己表現、誰にでも適正がありかつ人生の最高目標に据えるにふさわしいことが、一つ残されています。それこそ、はじめに触れました「自分自身になる」ということです。すべての人は個人なのだから、そのまま何もしなくとも人生の最高目標をもう達成してしまっていると考えるなら、そんな甘いものではない。人生の目標は自分自身「である」ことではなく、自分自身「になる」ことです。
自分の信念に基づき、一生精進ないし行動することは「自分自身になる」ことでしょう。(P248)

『哲学の教科書』

もしかすると人は自分自身になるために、SNSなどで自分を晒け出すのかもしれません。このように考えると、辻褄が合うような気もします。

もう少し、キアラを例に考えてみましょう。彼女も最初は満たされないピースを埋めるために(両親の離婚など)、ブログ上では理想の自分を演じていたけれども、それは彼女にとって自分自身「である」ことではなく、自分自身「になる」ことに他ならなかったのではないかという気がしてきました。

SNS上で“盛る”ことは、そこに理想があると仮定すると、自分を“盛る”=理想の自分と置き換えても良いでしょう。つまり、こうありたいと思う自分自身「になる」ための精進ないし行動として、人は常にSNS上で自分を晒け出す(情報を発信し続ける)とは、考えられないでしょうか。

キアラの夫は映像の中で、夫婦の私生活をさらけ出す人生を選択することを宣言します。自分の人生を語る手段としてSNSなどを通じて発信し続ける人生です。だから、ふたりがよき母と父になる過程もさらけ出すこととなり、必然的に子どもも本人の意志とは関係なく衆人にさらすことを選択することになります。

WEB上で「自分自身になる」

ここで、子ども本人の意志とは関係なくSNS上にさらすことを、問題視する人も確実に存在します。お金儲けのために利用していると。きっとキアラの息子が着るベビー服や遊ぶおもちゃなど、ビジネスにもちろんつながるでしょう。しかし、キアラの夫は商業的に利用する訳ではないと弁明しています。インフルエンサーファミリーとしての生活は、フォロワーを増やすためでもなく、金儲けのためではないと。そうした成功は二次的な結果でよいんだと(では、彼らが目指すモノはなにかと云えば、それはこの映画を観てのお楽しみ)。

しかし、「自分自身になる」ことは、必ずしも世のため人のためになることを含意してはいません。必ずしも「よいこと」を為すことを含んではいない。この言葉には「よいこと・悪いこと」といった枠を越えたもっと根本的な意味があります。それは、先の「散木」という概念に近く、何かよいこと・価値あること・役にたつこと・為になること等々をめざすのではなくて、「生きること」そのことを目標にするという面があります。(P248)

『哲学の教科書』

確かに、彼らは富を得たことは間違いありませんが、生きることに精一杯のようにも見えます。初めて子どもを授かった若い夫婦の物語を、よい・悪い関係なく、ありのままに発信しているのでしょう。それが、彼ら夫婦の「自分自身になる」ことなのです。

SNS投稿は、生死の境を曖昧にする

しかし、『哲学の教科書』は、さらに続きます。

だが、「生きること」そのことを問題にすると必ず「死ぬこと」が影のようについてまわる。前に(第二章第5節)紹介した禅の坊さんたちの修行の目標は、例えば白隠の「いつかは生死を離るべき」のように、あるいは道元の「生をあきらめ死をあきらめるは仏家一大事の因縁なり」のように、「生死の区別」そのものを幻と自覚するようなところにあるようです。(P248)

『哲学の教科書』

哲学的な考察で避けては通れない「死」の問題が、ここで登場してしまいました。自分は哲学者ではないので、なるべくこの問題の泥沼にははまりたくないので、一気に話は飛躍します。

意識するしないに関わらず、ほぼすべての人が、いつか自分も死んでしまい「無」になることが分かっているし、すべての人に「死」は訪れます。

だから、せめて自分の生きた証を何かのカタチでこの世に残したいと思うのでしょう。

「魂」とは? 「精神」とは? 「存在」とは? 「私」とは? 「時間」とは?

そうした哲学的問に正面から向き合うのはしんどいですが、なんとなく、自分が死んでも(この世からいなくなっても)、自分が生きた証が残せたらいいなぁ……ぐらいに考えている人は多いでしょう。

そうした願いを叶えられるかもしれないのが、SNSをはじめとするWEBの世界なのです。

WEB上で自分をさらけ出すことは、自分の情報を蓄積していくことになります。その情報量が多ければ多いほど、より自分に近づくことにほかならず、それこそWEB上で「自分自身になる」のです。WEB上の自分の発言や意志などは、身体が滅んでしまっても残ります、特定の個人という人格を持って。つまり、ブログで日々日記を書き留める行為や、SNSで日々の生活をさらすのも、実は生死の区別を極めて曖昧にする行為なのかもしれません。

だとしたら、キアラのように金儲けができなくとも、人びとがWEB上で私生活をさらけ出す行為も納得がいくというものです。

実は、『哲学の教科書』は、もっと興味引かれる内容がたくさん書かれているのですが、最後にもうひとつだけ。

最後に言っておきますと、問題意識のない人にとっていかなる書もおもしろくはない。いかなる書も良書ではありません。(P339)

『哲学の教科書』

裏を返せば、すべて心がけ次第で良書になると言うことですね。

ということで、これからは仕事抜きに、もうすこしSNSを楽しもうと思った一冊。

「メメント・モリ」とは、「死を忘るなかれ」というラテン語です。

-ART of book_文庫随想
-, ,