ゴクツブシでごめんなさい
幼い頃、すでに文学部なんて潰しの利かない学部で、そんな所に進学するのは穀潰しである的な空気はありました。法学部、経済学部、商学部……なんてものが、生きていく(お金を稼ぐ)上で有利であると。
さらに、文学部のなかでもヒエラルキーがあって(少なくとも早稲田にはあった)、小説家目指してます! 的な「文芸専修」、映画目指してます! 的な「演劇専修」というのが人気で、あと、「社会専修」というのも狭いヒエラルキーのなかでは上位に位置していました(潰しが利きそうだった)。
そんな狭い狭いヒエラルキーのなかで、まったく相手にもされず、エアースポットのような専修が、「美術専修」でした。人気もなく、穀潰しのなかの穀潰し的なところ、という空気がありました。なぜなら、芸大とかと違って、手を使ってクリエイトするのではなく、もっぱらやることは歴史、つまり美術史であったからです。そんなところにすすんで行くヤツなんて、人生をドロップアウトしてしまったような人たちであったのです。実際、氷河期2年目の就職活動にはまったく不利でありました(と、思っていたのは当時の自分だけで、本来、実力のある人物ならどんな大学だろうが学部だろうが専修だろうが、関係ありません)。
美術史は、思想史や科学史や経済史や一般的な社会の歴史と同様に、人間の歴史の重要な一部であるから、これを欠いては人類の創造してきた世界の総体を理解することなどとうていできはしない。つまり、美術は人類の歴史のとても重要な資料なのである。そればかりでなく、美術史の知識や方法論というのは、過去の芸術品を理解するばかりでなく、現在身の回りにたくさんあふれているイメージを解釈したり、イメージを作り出したりするためにたいへん役に立つものなのだ。(P10)
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若桑さんのこの文章に、学生の頃に出会えていたら、より一層自信をもって美術史に邁進していたかもしれません。でも、人生を振り返るこのタイミングで出会えたことの方が、意義は大きかったと思うのです。なぜなら、自分にとっての「これから」ではなく、「これまで」のこととして経験に裏打ちされた内容だからです。
美術史で培った知識や方法論って、自分の仕事に直結していたし、いろんな場面で応用できたことばかり。ある壁にぶち当たっても、美しく対処すればたいていはうまくいき、幾つもの選択肢がある場合は、もっとも美しいと思うものを選べば、まず間違いありません。つまり、自分の美意識に忠実であれば、ほぼ間違いはなかったということです。
そして、この美しいと思う基準──美意識を養う場こそが、美術史なのです。
ウルトラマンとゴジラの世界観はよく分かる
ほんとうに芸術をわかるためには、その意味についても知らなければならないということになります。異なった文化を享受するには、異なった文化を理解しなければなりません。芸術とは、はっきりいいますが、作るにせよ、享受するにせよ、きわめて思想的なことなのです。(P36)
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芸術作品と対峙して、“自分が感じたように感じればいい”、というのも至極もっともなことなのですが、本当の意味を知るためには、やはりそれなりの素養が必要となります。その素養を身につけるためには、文化──当時の歴史や価値観などなど、知っておくべきコトがたくさんあります。
幼稚園がカトリック系であったため、西洋美術の根底にあるものに、それほど違和感は感じなかったものの、ハッキリ言って、イタリア人のようにはボッティチェッリは理解できないし喜びは伝わってきません。
同じように、会田誠の『巨大フジ隊員VSキングギドラ』を、われわれニッポンのオヤジと同じ感覚で観ることができる(笑える)イタリア人もいないわけです。同時代的にウルトラマンもゴジラも経験していないわけですから。さらには、江戸時代の春画を嗜んでいることも必要とされます。
というわけで、異文化の芸術を理解するには、とてつもない努力が必要であり、さらには真の部分で本当には理解できていないのだろうな、ということも容易に察することができるわけです。
大学生の頃は、もうそれだけで、途方もなく気が遠くなったものですが、そもそも同じ日本人であっても、完璧に他者を理解できるようなことなんてあり得ないわけですから、そこは最大限の努力を持って理解するように努めれば、まあよしとしましょう、ということになります。それが、“自分が感じたように感じればいい”というわけなのですが、自分よがりの解釈で良いという訳でもないのです。
そして、イタリア人のようにダンテを味わうことも、英国人のようにシェークスピアを解することもできないと分かったからこそ、日本人としての美意識を磨けばよいと諦めもつくのです。
いま求められるのは、直観力
大切なことは、現代の目で過去を切ってはならないということです。まして数千年にわたって人類の世界観、宇宙観の基本となっていた哲学は、たとえ科学的真理がそれを否定したとしても、その価値を減らしたわけではありません。
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歴史とは過去を正しく理解することで、現在の価値の基準で裁くことではないのです。それに、現在の科学的真理というものも、はたしていつまで真理でありつづけるでしょうか。(P172)
美術と同じく、穀潰し的な学問と捉えられがちな哲学ですが、実は、よりよく生きるため──より深く考察するためには、とても大切であったりします。……が、日本ではあまり重要視されません。なぜでしょうか。
いま、日本で閉塞感を感じているのは、すべてがファクトベースでしか物事がジャッジされないからです。私がこれまで経験してきた雑誌業界で例を挙げてみましょう。
雑誌社での企画会議でよく見られるのが、流行その他に感度の高い編集者が企画したものは、たいていの場合、「前例がない」とか「類誌がない」といって敬遠されます。つまり、ファクト=データがないので、どれくらい売れるかの予想がつかないというのです。予想がつかないものは企画として通せない、と云う理論です。
ここでもし、爆売れしていた雑誌が前例としてあり、その二番煎じの企画であったら、ほぼ間違いなく通ります。しかし、粗悪な二番煎じは同じように爆売れすることはありません。二番煎じの企画を出すような編集者は、たいていの場合クリエイティブではなく、物真似をよしとするような良心の持ち主ですから、フロンティアであるオリジナルに比べ粗悪になります。そもそも、企画には思想もなにもなく、「他で売れてるからパクっちゃおう〜」という短絡的なものですから。しかし、経営側はそれは考慮しません。売れている雑誌と同じ内容だからと云う、ただそれだけのファクトで企画が通り、たいていの場合、無駄死にです(というのを、よく見ました)。
出版社に外から入ってくるコンサルティング、雇われ社長のような人たちの多くは、ちょっと昔の経営手法──ファクトベースでしか状況を判断できないため、負のスパイラルに陥っているのがほとんどです。雑誌や本が売れくなるのは当たり前です(かつての山師のような出版人も当然問題がありますが)。では、何が足りないのか。
欧米ではずいぶん前から注目されているデザイン思考でビジネスを見ることができる人が、日本には少ないからでしょう。
ここではデザイン思考については割愛します。デザイン思考には、美意識や哲学的思考が非常に大切になってくるということだけ書いておきます。というわけで、日本では金にならない穀潰しと云われていた文学部の美術史や哲学が、いま、必要とされているのです(たぶん)。
おなじことが過去にもいえます。過去の誤謬のなかに現在の真理の卵があります。また、科学的真理は価値を変えても、芸術の価値はそれとは別です。芸術の価値は、これは大変むずかしいことで、人によってじつにさまざまでしょうが、私は、芸術の価値のひとつは、それが、どれだけ人間にとって普遍的な真実をふくんでいるか、という点にあると思います。(P173)
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欧米では、ビジネスエリートと呼ばれる人の多くは、教養として哲学やアート・文学に親しんでいる人が多いようです。しかし日本では、そうではない。だから良心というものが欠如している人が多いのかもしれません。ファクトベースの瞬発的な数字でしか、評価されないのですから。
ただ、世の中を賑わせているニュースの渦中にいる年老いた人物(政治家)の言動を見ていると、美意識が非常に欠落しているのか、それともそもそもサイコパスであったりするのか、もしくは軽く認知症が出ているのか、素人には判断が付きかねます。
というわけで、これからもカッコ悪いと直観で感じてしまうコト──自分の美意識に反するコトに手を染めぬよう生きていこうと思った一冊。
『イメージを読む【美術史入門】』若桑みどり/ちくま学芸文庫