ART of car life_E30 M3 diary

旅するエムスリー、中山道六十九次ドライヴ◎08_熊谷

E30M3で走破した、中山道六十九次の旅の記録。2018年12月11日〜15日の4泊5日をかけたドライブの様子を宿場ごとにレポートしています。

DAY 1 7:07_熊谷

2018.12.11

朝陽とともにようやく開放的な景色到来!

朝陽が昇ってくる頃に、ちょうど二股に分かれているポイントで旧中山道は荒川の熊谷堤沿いの道へ。旧中山道は右へ進路を取るのだけれども、対向車が来たためしばし停車して待つことに。すれ違うのは結構しんどい道幅だ。ひょっとして一方通行ではないか、念には念を入れて確認し、一気に駆け上がる。

この中山道旅で初めて、E30M3にぴったりの道がオレンジ色に染まる空の下に伸びていた。実際には2kmもない区間なのだが、地平線近くのオレンジから天へ向かってブルーへとグラデーションする空は、何にも邪魔されることなく拡がっており、ようやく旅に出たんだということが実感された。こんな景色を車窓から眺めたくて旅に出たのだ。

ちょうど通勤時間帯だったので、先を急いでいるのだろう、前方を走るクルマはそれなりにスピードを出しているようで、追いつく気配もない。信号や一時停止ばかりを気にしなくてもよいこうした道は、このあとの中山道では当たり前になるのだけれど、日本橋から夜通し一般道を走ってきたこともあって、記憶に残る短い区間だった。

「熊谷」の呼び名の使い分け

熊谷は地名では「くまがや」と読むが、この地の有名な武将である熊谷直実は「くまがい」と読む。この直実の父である直貞が、この地で熊退治をしたことに由来する地名というのは、どうやら逸話だとしても、地名に「熊」とつくと、むくつけきな益荒男が連想されてしまう。熊谷直実は、源頼朝に「日本一の剛の者」と称されており、さらにまったく弁が立たなかったようである。

小学校の途中から高校を卒業するまで住んだ熊本市も、「熊」がつく地名だけれども、そんな無骨なイメージがぴったりの風土だったように思う(ちなみにこの中山道旧道の旅は三条大橋でゴールしたあと、福山で取材→最終取材地は熊本であった)。

そんなことを考えていたら、熊谷宿にはどうやら飯盛女(遊女)がいなかったようだ。その理由は、熊谷にあった私塾から要請されたからであった。つまり、塾生の勉学の妨げにならないように、ということらしい。「熊」が地名につくところは、やっぱり硬派だ。

……ということで、E30M3もやっぱり無骨で硬派なイメージ。レースに参戦するホモロゲーションを取るために施されたオーバフェンダーなどのボディメイクは、イタリア車のデザインとはまったく違って、美しさを追求するところからスタートしていない。でも、結果としてそのゴツゴツした無骨さが心地よく感じられるのだ。

クルマでは通れない旧中山道

さて、旧中山道は荒川の土手を離れ、秩父鉄道と高崎線の踏切を渡って国道17号を左折する。中山道のナビアプリでは、熊谷宿の竹井本陣跡あたりから斜右に進むようになっているのだが、実際に〈鎌倉町〉まで来てみると斜めに進む道はなく、百貨店が建っていた。

そこで、その先の〈本石二丁目〉で左折し、そのあと左折を2回繰り返して再び〈鎌倉町〉に。たいていの市街地では、うっかり通り過ぎたときは左折3回で元の場所に戻ることができるものだ。

中山道旧道だけでなく東海道旧道でも、高速道路や鉄道、その他の理由で旧道のルートが変わってしまった場所はたくさんあるが、百貨店が建っていたというのは記憶にない。〈鎌倉町〉を真っ直ぐ行くと、すぐT字路に突き当たる。その突き当たったところが熊谷直実にゆかりのある熊谷寺である。ただしこちらは「ゆうこく」と読む。

熊谷寺の門の前で撮影して、百貨店のまわりを囲むようにある道を回って再び旧中山道へと右折。この旧道の入口に「一番街」と書かれた看板が門のようにして建っており、かつて賑わったであろう商店街の区間を500mほど走ると、再び国道17号線へ。

このあと、中山道旧道は17号線とクロスしながら深谷宿へと続いている。

※注:〈  〉内は、交差点名をさします。

◎E30 M3の車窓から

おそらく高崎線の車両と思われる列車と。夜が明けて世の中が始動したのが分かる。景色を楽しみながら走る時間帯になった。うっかり電源が落ちてしまっていたGoProのタイムラプス撮影も少し前から復活。

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