ART of book_文庫随想

『家畜人ヤプー_つまりペットも同じようにして今に至るわけです』

ゆっくり話をしてみなければ、当然ながら人というものはまったく分からない。
これまでもよくイベント等でご一緒していたクライアント筋の方と、2日間一緒に時間を過ごす機会がありました。
とりとめもない会話をしていて、「ひょっとして仏文出身なのかな?」と思ったら、やっぱりそうでした。
マルキド・サドから渋澤龍彦や稲垣足穂などの話に発展して、『家畜人ヤプー』へと。
学生の頃に読んでみたいと思いつつ、当時は本を手に入れることもできないまま、なんとなく読まないままでした。
そして、幻冬舎文庫版を2004年に入手するも、2巻目まで読んで頓挫。
どうしてその時頓挫したのかは、すっかり忘れていましたが、久しぶりに文学話に花が咲いたので、「次に会うまでにお互い『ヤプー』を読了しておきましょう」という話をして別れました。

これも分かりきったことなのですが、本には読むべきタイミングというものがあります。
その意味では、『家畜人ヤプー』は、私の人生で時期を逸してしまっていたかもしれません。
映像や写真その他で、『ヤプー』以上に刺激のあるものを経験してしまったせいか、予期していたほど新鮮な驚きが少なかったのです。
というか、そもそも性描写らしい性描写を期待して読み始めたら思い切り肩すかしを食らってしまいます。
しかし、日本の神話や古事記などを、これでもかとイース文化と関連づけている沼正三には、脱帽と言うしかありません。
……が、それもただの言葉遊びにしか感じられず、よくぞここまでこじつけた(妄想した)ものだと、今となっては、その執念に脱帽なのです。
ただし、『ヤプー』の存在を知った10代の頃だったら、フィクションとして純粋に楽しめたかもしれません。

とはいえ、今だからこそ、性的な描写に惑わされることなく、淡々と読むこともできたのも確かです。
SM小説ではなく、単純にSF小説として味わうことができました。
そこで感じたのは、『ヤプー』は、SMとか日本人の白人コンプレックスとか……だけでなく、ほかにも端的に風刺しているのではないかということです。

たとえばイースの未来人は、日本人を家畜として見なし、便器や椅子などの家具にするほか、食用や闘わせて賭けをするだけのために、肉体を改造します。
手のひらにのるサイズ(もっと小さい、膣内に収まるものも)から、6倍体の5メートルのサイズのものまで、イース人(白人)の用途に合わせて、日本人が改造されるのです。
人権? 家畜ですから人権はありません。
われわれが、鶏や牛、馬、豚、犬、猫……などなどに行っているのと同じです。
食用としての家畜は、ほとんどが加工処理をされた状態でわれわれの目に触れるので、生きた状態でもっとも近いのがペットでしょうか。
奇しくも小説内で、主人公である麟太郎がクララの犬(に近い存在)にされてしまうのですが、ペットの犬なぞは、ヤプーに近い状態かもしれません。
手のひらにのるサイズ、毛がないもの、脚が短いものといった、自然界でなら異形である形態の犬たち。
賭け事のレース用、闘犬用、狩猟用、牧羊のため……と用途別の犬たち。
それらは、意図的に掛け合わせて作られた犬たちです。
犬たちが可哀想〜、ではありません。
生粋の日本男児であった麟太郎も、小説の終盤ではヤプーになることを自ら選択します。
そう、家畜になることを明晰な頭脳で選ぶのです。
だから、食用や愛玩用の家畜・ペットもきっと……。
そんな風に解釈するのは、やはり人間のエゴですかね。

『家畜人ヤプー』って、『ガリヴァー旅行記』の影響をずいぶん受けているんだな、ということが分かった1冊。それが分かると、『家畜人ヤプー』が風刺的であることも納得。それにしても、yahooって、どうしてヤフーにしたんだろう?

『家畜人ヤプー:沼正三/幻冬舎アウトロー文庫』