ART of book_文庫随想

『ホモ・ルーデンス_スポーツを純粋に楽しめてますか?』

部活動って、スポーツの技量を学ぶだけでなく、いろいろなことを学ぶ場でもあります。

私の場合、小学校で入っていた野球部は確かにそうでした。
私が学んだのは、個人のスキルが上達してもそれだけでは超えられない壁があるということ。
高校生レベルの段違いのスキルがあれば、当然そんな壁はブレークスルーできますが、小学生の私には当然そんな技術もなく、また野球で将来生計を立てるなんてことも考えていないので、野球が生活の中心になることはありません。

つまり、ポジションはサード、打順は6番というところが精一杯。
もっとほかのポジションや、クリーンナップになるためには、さらに違う「力」が必要となるわけです。

そうした構図が見えてしまうと、もうバカらしくて野球部なんてやってられません。
1年ほど野球部に在籍して、早々に退部いたしました。
社会の縮図を幼い頃に経験できたことは、部活動を通してこそ得られた生きた社会学習でした。

義務教育における運動部活動は、「生徒のスポーツ活動と人間形成を支援するものであることはもとより、その適切な運営は、生徒の明るい学校生活を一層保障するとともに、生徒や保護者の学校への信頼感をより高め、さらには学校の一体感の醸成にもつながるものである。(文部科学省のHPより抜粋)だそうです。

ここで気になるのは、「適切な運営」という言葉でしょうか。

ところで、義務教育期間中に、古代ローマのコロッセオで行われていたことを学ぶと、野球を含む競技場でのスポーツ観戦が急に白々しくなってしまいました。

民衆のガス抜きのための娯楽であると思うようになったからです。
ここでは、否定弁証法的に論を進めます(異論は異論として認めつつ、こうした見方もできますよ、という提示です)。

為政者が民衆の目を政治から逸らすための娯楽の場がコロッセオだったとします。
過激な殺し合いに民衆が熱中することで、政治や体制に対する不満が解消されたとします。
為政者はそうやって民衆のガス抜きをして、その間に都合のよいあれやこれやを行います。

一見すると平和な世の中が維持されているようです。
見ている方も楽しんでいるし、提供している方も私腹を肥やしたり権力を維持しているわけですから、それでいいんじゃない? だってみんながシアワセだもの。
(加えて、殺し合いしている剣闘士はそもそも捕虜や奴隷だし、場合によっては彼らの元に貴族の女性の方から抱かれに来たそうだし……)

コロッセオを現在の競技場に置き換えて考えてみます。
ただし、さすがにローマ時代と違い、民衆は観戦料を徴収されてしまいます。
本当の殺し合いはなし。
そのかわり、本気のベストプレーが要求されます、民衆(観衆)のためのエンターテイメントですから。
手を抜いたプレーは、いかなる理由であっても、たいていは非難されます。
プレーヤーは民衆(観衆)を楽しませるために、全力でプレーしなければなりません。
ぬるいプレーはガス抜きになりませんから。
プレーヤーが本気であればあるほど、民衆(観衆)は魅了されます。
日常の嫌なことが、ご贔屓選手のホームランやボレーシュートが決まった瞬間、スッキリします。
ご贔屓チームが勝っても負けても、全力のプレーを観戦できたら、まあ、一種のカタルシスを感じるものです。

こうしてつつましい幸せな世界が維持されているのかもしれません。

少し前に、プロ野球の16球団構想というものがありました。
この構想、自民党の日本経済再生本部による「日本再生ビジョン」に端を発しているそうです。
アベノミクスに沿って、「プロ野球市場の拡大を通じての地域活性化」を狙ってのことでしょう。

ついでにカジノ法というのも成立。

コロッセオで剣闘士が殺し合いをしていた頃の政治や為政者がどうであったのか、いまこそ学び直してみるのもいいかもしれませんね。

「つまり、いくらオリンピックやアメリカの諸大学におけるスポーツの組織化やさらには声高に宣伝された国際競技が頑張っても、いかんせんスポーツを様式と文化の創造活動にまで高めることはできないのだ。それは演ずるものと見ているものにとってどれほど重要なものであれ、所詮は不毛の機能にしか過ぎない。そこでは昔の遊びの要素は大部分、死滅してしまった。」

ホイジンガによれば、そもそもスポーツにはもう天衣無縫の大らかさが失われ、神聖にして繁栄と福祉をもたらす行為として欠くべからざる競争でもなくなったそうです。

ちなみに、私が小学生の頃に野球部で見た構図とは、親と監督との癒着というものでした。
そしてそこで見たのは、花形ポジションにつき、クリーンナップで打順に立っても、実力が伴わないと、つまりは結果を出せないとかえって惨めであるという、至極簡単なことでした。

近頃、こころから遊んでないなと、痛感した1冊。

『ホモ・ルーデンス:ヨハン・ホイジンガ、里見元一郎訳/講談社学術文庫』