スーパーカーは見せびらかしてナンボのものなのです
ランボルギーニやフェラーリといった、富裕層向けのクルマを専門に扱う雑誌の編集長を務めていた頃、雑誌の巻頭にコラムを執筆していました。
あるとき、そのコラムに「スーパーカーを所有したくなる人の心理」というテーマで書いてみようと思ったことがあります。しかし、このテーマの論旨をノートに展開していく段階で、「これはまずいな」ということになりました。つまり、こういうわけです。スーパーカーを購入するような読者の方達が読んで、あまり気持ちのよい内容にならないのです。
人はよく、雑誌も新聞もテレビもひっくるめて〈マスコミ〉と括ってしまいます。そこには公正な意見や立場が求められがちです。しかし、ある分野に特化した雑誌の場合、その立ち位置というのは至極明瞭です。その雑誌がフィーチャーするジャンル万歳! というのがスタンダードな立ち位置です。だから、その手のクライアントから出稿もしていただけるのです。ですから、記事に〈嘘〉があってはいけませんが、わざわざマイナスイメージに繋がることを書いたり取り上げたりはしません。よく、「なんとかの○と╳」という特集タイトルを見かけますが、それだって巧妙に「╳」の記事が書かれています。本質を突くような身も蓋もないことはしません。枝葉のどうでもいいことを「╳」にするのです。もしくは、政治的にゆさぶりをかけるために、あえて「╳」をピックアップするということもありますが、まあ、商業雑誌というのは得てしてこんなものです。ジャーナリズムからは、ほど遠いものだと思っていただいて間違いはないでしょう。ですから、報道関係のジャーナリストと自動車関連のジャーナリストというのは、まったく立ち位置が異なると云うことを理解していなければなりません。
しかし、それでいいのです。スーパーカーが好きな人やスーパーカーのオーナーが、その専門誌を買ってみると、そこに「このクルマはボロだ、カスだ、こんな環境に優しくない糞グルマを乗っている人間の精神構造が信じられない……」とこき下ろす記事があったとして、気持ちのよいものでしょうか? そこは、スーパーカー礼讃という予定調和があってこそ成立する世界なのです。もちろん、嘘はいけません。
話が逸れてしまいましたが、「どうして人は裕福になると、見た目にも分かりやすいスーパーカーを所有するのか」というテーマに沿って論を展開していくと、受け取り方にとっては、とても意地悪な内容になってしまいそうなのです。それで急遽、別の内容に変えて執筆することになりました。
承認欲求は衒示的欲求のあらわれ
そうしたテーマで原稿を書こうと思っていたことすら忘れていた頃、『有閑階級の理論』を読んでみると、私がすでに書きたかったことがきちんと書かれているのです。それも100年以上も昔に。インターネットはおろか、テレビもない、モータリゼーションなんてものもまだまだ先という1800年代最後の時代に書かれたこの書物は、いうなれば現代の予言の書でもあるのです。
私はコラムの中で、性淘汰・性選択という進化論にヘーゲルの概念を織り交ぜて論を進めていこうと思っていましたが、『有閑階級の理論』では、〈衒示的消費〉という言葉で端的に説明していました。
きっと「有閑」という単語を聞くとその後に、「マダム」と続けたくなる人が多いと思いますが、「有閑マダム」とは、まさしく〈衒示的〉象徴であるのです。
話を元に戻すと、スーパーカーって「目立ってナンボ」のもの。そこにレゾンデートルがあるのです。だからアンダーステイトメントな英国流より、毒々しくて派手派手しいイタリアン・スーパーカーの方が万人受けするのです。そして、バブル景気の頃よりも数多くのスーパーカーが新車で販売されている日本。この数十年で、日本人の感覚もだいぶ変化したのかもしれません。
そういえば、FacebookやInstagramの承認欲求やリア充アピールは、まさしく〈衒示的〉な欲求の現れと言っていいでしょう。しかも、かつてのように有閑階級だけでなく、庶民までもがその欲求にかられているという、ヴェブレンが生きていたら驚くような世の中になってしまいました。
クルマを所有していること自体が〈衒示的消費〉だった昔と違い、クルマは庶民でも所有できる身近な存在へとなりました。メルセデス・ベンツやBMWでさえ、もはや〈衒示的〉欲求を満たすアイテムとは言えなくなりました。だからこそ、クルマで〈衒示的〉欲求を満たすために、スーパーカーがこれまで以上に求められるというワケです。
この先、万が一、億万長者になるようなことがあったとしても、私の妻が有閑マダムにはなりえないということが分かった一冊。
『有閑階級の理論』ソーンスタイン・ヴェブレン・村井章子訳/ちくま学芸文庫