ART of book_文庫随想, ART of work_編集者ヨシヒコの知的冒険

『人生に生きる価値はない_とはいえ、誠実に生きましょう』

先日、とあるメーカーのCEOにインタビューする機会がありました。
ただし、単独ではなくグループインタビューです。

インタビューの時間が迫り、いざ別室に案内されたのですが、
そこでいきなり、代理店の人間にペンとブロックメモを渡されました。

「インタビューではこれでメモを取って下さい。あ、インタビュー後はペンは返却してください」

手渡されたのは、そのメーカーのロゴがプリントされたオフィシャルのペン。
市場ではまあまあいい値段がついているシロモノ。
そしてブロックメモは、ポストイットのように貼って剥がせるメモです。
もちろん、そのメーカーの商品がプリントされています。

いつも使っている取材ノートとLAMYのローラーボールを使うなということなのですが、その真意は?

〈推測〉
オフィシャルカメラマンがインタビュー風景を撮影するため、われわれもそのメーカーのものを使わなくてはならない。

〈実際〉
オフィシャルカメラマンは入っていなかった。

うーん、調子狂う。

そのメーカーというのは、いわゆるハイブランドの(文房具とは関係ない)メーカー。
ペンは重くて相当書きづらい、見たくれだけのものです。
そもそもインタビューの時のメモは、ノートに視線を落とさず、サラサラと走り書きする程度。
いつもの使い慣れたペンでないと、調子が狂うのです。

そしてポストイット式のブロックメモは、一番上のメモを書き終えて次のページをめくることができません。
なぜなら用紙を一枚剥がすことになるのですから。
結局、剥がしたメモを自分のノートにペタペタ貼るしかありませんでした。

うーん、意味分かんない。

……が、実はインタビューの時は、キーとなる数字や単語をメモるくらいなので、ブロックメモを2枚剥いだ時点で、メモを取ることをやめました。
録音しているので、あとでリライトするだけのことですから、実はたいしたことではないのです。

さて、インタビューの時、まったく何を喋っているのか分からないイタリア語だろうがドイツ語だろうが、たまに知っている単語が出てくる英語だろうが、メモはあまり取りません。
その代わり、喋っている人の目を見るようにしています。

目は口ほどにモノを言う。

そうなんです、その言葉に誠意があるのか否か。
適当に答えているのか否か。
目を見ていればよく分かります。

たとえば翻訳家が、「日本が好きです」と逐次通訳したとして、
それが社交辞令なのか、本当に日本贔屓なのか、目を見ていればたいてい分かりそうなものです。

原稿を書くときに、そのへんの微妙なニュアンスを反映するというわけです。

小学生の頃、よく先生たちに「話す人の目をきちんと見なさい」と言われましたが、大人になるとその意味がよく分かるようになりました。
逆に、人の目を見て話せない人は、どこかにやましさがあることも。

“最近、年取ったのか、「純粋な瞳」にめぐり合うとむやみに感動する。不純な瞳を毎日あきれるほど見てきて、瞳の不純さは行為の不純さと完全に併行することを確証した結果、不純な瞳の主が何を言っても信じない自分を見いだすに至った。「誠実性」と言い換えてもいい。カントは『純粋理性批判』の中で次のように言っている……”(P148)

さて、インタビューを終えて部屋を出る際に、スタッフにペンとブロックメモを渡そうとすると、「ブロックメモは差し上げます」とのこと。
うーん、プライベートでもけして使わないデザインなんだけど……。
中途半端に使ったものは、読者プレゼントに出すのも失礼なことだし。
……と、そんなことを考えていたら、さきほどの代理店の人間がやってきて、「ペンを返して下さい」と。
「さっき、そこのスタッフに渡しましたよ」と伝えながら見たその人の瞳は、不純な色を帯びていました。

“では、誠実性とは何か? カントに即して考えるに、それは外形的な善さ(「適法性」)から自己利益を完全に除去すること。すなわち、「善い行為」を実現するさいに、わずかにでも自己利益が混入してはならないということである。”(P150)

自分の都合のよいように人を使おうとする場合、まあ、たいていはそこに誠実性は欠落しているというものです。

日常生活では丸くなっても、表現することでは牙を常に磨いていないといけないと自省した一冊。

『人生に生きる価値はない:中島義道/新潮文庫』