デジタルデータにも美しさがある
デジタル化された雑誌の編集をしていると、いろんなデータをいろんな人から受け取ることになります。
それはテキストであったり、画像であったり、入稿データであったり……。
そして、それらのデータには美しいものと、汚いもの(と我々は呼んでいる)とがあります。
(ここでは、たとえばテキストデータで受け取る原稿の内容といったものは、ひとまず置いておきます)
最初の判断は、それらデータのファイル名でおおよそついてしまうものです。
いわゆる汚いデータは、ファイル名も汚いのです。
名は体を表すといいますが、それはファイル名にも当てはまります。
美しいものと汚いものと、その違いは何に由来しているのかと考えてみたとき、ひとつ思い当たるものがありました。それは、自分の手から離れたあと、そのデータを他人が使うことにまで思いが至るか至らないか、ということです。
汚いデータは、誰がどうみてもすぐに理解して使えるように、ブラッシュアップされていないのです。
わかるのは、作った本人のみ、です。
結果として、たとえば入稿データなどでは、信じられないほど重たいデータで渡されることがあります。
印刷所へ渡すだけでも一苦労します。
しかもバックアップするにも無駄にハードディスクを食ってしまうというオマケつきです。
逆にブラッシュアップされたものは、それがどんなものでも調和した美しさのようなものを感じるものです。たとえば、美とは無縁に思える機械でも、不思議なことに部品の並び方やシステムのあり方ひとつにそれが現れていることがあります。誰もが認めるよい創造に共通するこうした特徴は、自分自身でよい創造を生み出していく際の貴重な示唆になるはずです。
(P198)
これは、目に見えるものではなくとも、さまざまな分野でのワークフローという形でも同じです。
すっきりしたワークフローは、間違いも事故も少なく、時間も短縮できます。
まさに美しいワークフロー。
反対にそうでないものは、結果としてとっちらかった進行ということになります。
事故も多く、手離れがすこぶる悪い。
しかし、これには見える人と見えない人(気になる人と気にならない人)がいるようです。
むしろ、簡単なことをわざわざ困難にすることで、達成感を得ている、という場合もあるようです。
またこの書では、サラリーマンにもためになることも書かれています。
局所最適、全体最悪
これを「局所最適、全体最悪」といいますが、失敗を誘発し、組織に著しい損害を負わせる直接の原因になることはよくあることです。
(P242)
たとえば利権などに固執した人事がまかり通っている場合、人の配置もどこか歪(いびつ)であったりします。
こうした人事配置は、いつか誤魔化しが通用しなくなり、大きく破綻するときがきます。
実際にこれまで勤めてきた版元で、何度かそうした破綻を目の当たりにしてきました。
木を見て森を見ず、という諺もあるように、会社組織という全体を見通した人事でないと、長い目で見て組織にとっての損失になるということが多々あるようです。
そして、いままで読んだいろんな方の書で指摘されていたことも、この本に書かれていました。
会社を見分けるときに、概していえるのは、会議の多い会社ほど、失敗を起こしやすい体質を備えているということです。
(P256)
いろんな方が指摘しているのに、会議が多い会社って、一向に会議が減ることはありません。……、あえてその理由はここでは書き(け)ませんが。
とりあえず、仕事をする書斎をすっきり整理整頓することからはじめないとな、と感じた一冊。
『失敗学のすすめ』畑村洋太郎/講談社文庫