ART of cycling_二輪書

旅するBD-1、東海道五十三次を行く◎36_赤坂

BD-1で走破した、東海道五十三次の旅の記録。2018年3月23日〜28日の4泊5日をかけたポタリングの様子を宿場ごとにレポートしています。

DAY 4 9:10_赤坂宿

2018.3.26

赤坂はやっぱり夜の町だった

御油の松並木を通り過ぎると、すぐに小さな橋を渡ります。
橋のたもとには、「生活道路につき一般通過車両の進入はご遠慮ください」の看板。

BD-1なので、「遠慮」なく進入させていただきました。

BMW i8での東海道五十三次の旅のとき、シレッと通過しちゃいました。なぜなら私道ではなく県道だったから。

しかし、今回は自転車なので遠慮することなく突き進みます。

赤坂宿は、『東海道中久栗毛』で弥次郎兵衛と北八が宿泊した場所です。当然、ふたりはここでもひと騒動起こしてしまうのですが、それはまぁ、おいといて。

弥次郎兵衛が、夕飯も済ませてしまってから、「やっぱり淋しいから飯盛女でも呼ぼうか」と北八に相談します。北八は、「もうこんな遅くだと、器量よしは残っていねえよ。ババァか、あばた面ぐらいなもんだ」と、まあこんなやりとりが交わされます。

赤坂は、夜遅くまで騒がしく、毎夜同時刻になると向称寺が鐘をついたそうです。早い話が、「はーい、みなさーん、いい加減にもう寝なさーい!」という合図。

『東海道中膝栗毛』でも、婚礼の儀もあって、騒々しいさまが描写されています。

つまり赤坂って、今で言うところの歓楽街で、イカガワシイ町だったということなのでしょう。

クルマで東海道を旅していたときには、あまり感じませんでしたが、たしかに東海道の宿場にはいくつかパターンがあって、この赤坂は隣の御油宿や品川宿などと同じ空気が残っています。

昔からある温泉街と同じような、なにかねっとりとした淫靡な空気。

江戸へ76里26町、京へ49里16町。気がつくと半分以上。花魁の絵が描かれているところに、赤坂の町の歴史が伺えます。

女性たちの悲しい物語が、怨念のように町に染み付いているというか……。よく宿場にある寺には、飯盛女の慰霊碑が建てられていたりしますが、それもうなずけます。

東海道の宿場を訪ねるということは、今で言うところの風俗街(の跡地)を訪ね歩くことと同じこと、と決めつけるのはちょっと言いすぎでしょうか。

とまあ、そんなことは旅を終えてからの感想でして、このときは先を急ぐことにだけに専念してました。5日間で旅を終えることができるのか否か、まだ自信がなかったからです。

赤坂は町並みとして宿場時代の面影を残しているエリアはほんの少し。かつての栄華が嘘のよう。

そんな赤坂宿の浮世絵は、旅籠「清須屋」を描写したものです。
浮世絵ポイントでパチリ。先を急ぎます。

徒歩や自転車でこそ感じられる東海道

東海道旧道は〈関屋〉で国道1号線となり、国道1号線の歩道を1.5kmほど進むと〈本宿町深田〉で、国道1号線に並行する道へとルートを取ります。

岡崎市の標識が見えてきました。
岡崎市の標識をこえると、突然関所跡? のような冠木門が……。

するとすぐに現れるのが大きな関所跡のようなものが……。関所がここにあったという情報はありませんでしたが、とにかく記念撮影。(後で調べたら平成6年に建てられたものらしい)
なにかの区切りだとしたら、豊川市と岡崎市の市境ということでしょうか。

徒歩での旅ならば、ちょっと腰掛けて休憩できるようになっています。
左の東海道旧道へルートをとります。

さらに進むと、もうひとつありました。
こんどは国道1号線と東海道を記す標柱です。
「左 東海道」と書かれている通り、国道一号線を離れて次の藤川を目指して東海道を進みます。

注:〈  〉内は交差点名を表します。


●GoProからの1枚

マンホールの絵柄が、赤坂宿の浮世絵をモチーフとしたものになっています。

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