ART of book_文庫随想

『50代から始める知的生活術_久々に怒れるフリをしてみる』

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ブーメラン、ブーメラン……きっと情けは戻ってくるだろう

息子2人が通った保育園は、マスコミにも取り上げられるような、ちょっと変わったユニークな保育園でした。どうしてその保育園に通わせることになったのかといえば、妻がそこを卒園していたからです。よっぽど幼い頃の体験が彼女の心に残っていたのでしょう。加えて幼児教育を仕事にしていたので、自分の子どもはありていの保育園や幼稚園ではなく、自分が通った保育園でのびのびと成長してもらいたかったようです。

父親もふつうの保育園ではありえないほど行事その他に参加する機会があり、それはそれで知らない世界を見ることができたのでいい勉強になりました。

そのひとつが、〈ボランティア〉という意味の解釈が人によってさまざまであるということでした。

子どもの保育について意識の高い親御さんたちが多いのも、その保育園の特徴です。もちろん、共働きのために通わせる近所の方も当然います、保育園ですから。

こうしたことを踏まえて……。

山や海にと、保護者のサポートがなければ成り立たない園外行事がいくつもありました、しかも平日です。

その反省会で出てくるのが、簡単に言ってしまえば、サポートに来れない親御さんたちへの不満です。

泊まりの行事もあるし、サポートにはそれなりに経費がかかってしまいます。そのサポートにかかった経費を誰が負担すべきかということになったとき、ボランティアについてどのように認識しているか、各人の意識がはっきりと現れるのです。

ある人は全世帯数で割ればよいといい、いやいやサポートに携わった親は仕事を休んで参加しているので、サポートにこなかった世帯で費用は分担すべきだと主張する人もいます。

無理して時間を割いて、サポートに来れなかった家庭の子どもの面倒をみているのだから、どうしてそれにかかった費用まで払わなくてはならないのか、ということを主張するのです。

ボランティアとは、「自発的に」という意味です。自分がお手伝いをしたいと思うから行動するのであって、誰かに言われてするものではありません。誰かに言われて行うようでは、それはやらされているということです。

さらに言うと、ボランティアは自発的な行為であるのと同時に、自分のために行うものだと私は思っています。

こう書いてしまうと語弊が生じるかもしれませんが、つまり「情けは人の為ならず」なのです。

この、よく本来的意味を間違って使われてしまうことわざ、私は座右の銘にしたいくらいいつも肝に命じています。

誰かに情けをかけることは、巡り巡って自分に返ってくる、という意味です。だから積極的に人に親切にしなさい、と。

つまり、自発的な気持ちで、見返りを求めずに誰かの役に立てることを仮に行なったとしても、それはいつか自分に返ってくるということです。

突き詰めると、どんなに清廉な心を持って人の役に立とうと思って行動しても、とどのつまりは自分のためということです。それくらい、人間って業の深い生き物なのです。

だからこそ、ボランティアのような活動をおこなう際は注意が必要になります。心の片隅にほんのちょっとでも「誰かのために」という驕慢な気持ちがあってはならないのです。結局は自分のためなんですから。ましていわんや「してあげる」なんて思うのはもってほかです。

「私はこんなにやってるのだから、あなたもこれくらいやってよ」、などと他人に要求することはなおさらNGです。

というわけで、私は保育園のお手伝いにかかった経費は自分の分は自分でお支払いします、という考えでした。それを含んでのボランティア。

災害ボランティアに参加した人で、現地までの交通費を請求する人、どこにいるでしょうか。

してもらうのは当然、お返しに、世のため人のために役立とうなどと考えては、生存競争を勝ちぬけないと、短絡的に考えるのが、少しばかり教育を受け、少しばかり知的になった人間の落とし穴で、きわめて多くのエリートと言われる人も、その穴へ落ちてしまいます。

(P205)

そんな十年以上もむかしのことを、外山さんの本を読んでいて思い出してしまいました。外山さんの指摘するように、たしかに生半可な知識を身につけた人ほど……(以下自粛)。

そこに知性はあるのか

さて、50代が目前となったので読み始めたこの文庫ですが、示唆に富む言葉にいくつも出会います。分かっていた、知っていたつもりのことですが、この年齢になったことで、スッと腑に落ちるのです。

染みついた知識・常識の多くは、他人のこしらえた思考です。それを自分でつくったように使うのは、正直さに欠けます。
(中略)
物真似を防ぐには、世間の常識からつねに一歩距離を置くことです。声高に「反常識」などと叫ばないまでも、意識して、つまらぬ常識から少し離れたところで、自己責任の思考を持つようにしたいものです。

(P107)

TVや雑誌には、先達の思想をさも自分が見つけたようにひけらかす胡散臭い文化人がよく目に付きますが、最近では他人の作品、情報ソースをまるまる完コピして(ネットや雑誌などから拾って)、さも自分が情報を発信しているかのような素人WEBメディアが氾濫しているのには辟易します(そしてそれで儲けていたりする!)。

少し前にも、そうした正直さにかけたところから、苦労して取材して撮影してつくった雑誌の誌面をそのまんま盗用されたことがありました。彼らからすると指摘される(見つかる)までは、タダで儲けさせていただきますよ、と云う寸法です。

高度情報化社会と言われてますが、良いも悪いも区別がつかないほど玉石混淆の情報があふれ、「知の混沌」「知の迷走」におおわれています。高度になっているのは情報の集積であって、人間本来の思考をうながす知性がおろそかにされているのです。

(P119)

インターネット社会の落とし穴は、実はここにあるのかもしれません。すぐに手に入るネット情報は人に全能であると錯覚させているのです。思考するどころか知性もない、だから無断で人の作品をあたかも自分が作ったものであるかのようにネットで公開する……。自前の機材で人件費と経費使って取材・撮影・編集しているマスゴミと叩かれオールドメディアと呼ばれているテレビや雑誌のほうがまだマシと思うのは、そちら側にいる贔屓目でしょうか……。

独自の思考は、人生の岐路のような場面で求められるものです。自分なりに考えぬいたことをもとに歩み始めたあと、よい方向に向かうのか、悪いほうに向かうのか判然としない場合もあります。
しかし、どう出ても結果には自分の納得がいきます。まわりからどう見られても、動じない強さを持つことができます。もうひとつの自分の生き方を決めるとき、その強さがものをいうのではないかと思います。

(P108)

強く生きるためには、やはり強い思考が必要。つまり、常に頭を使っていないとダメということです。そのためにはやっぱり読書は一生やめられない、ということが分かった一冊。

『50代からはじめる知的生活術 「人生二毛作」の生き方外山滋比古/だいわ文庫

●補足

習得した知識を生かす上で役に立つのは、せいぜい三十代まででしょう。四十代、五十代ともなれば、知識だけではダメです。知性をはたらかせなくてはなりません。
さらに、六十代以降の第二の人生を実現させたいなら、置き去りにしてきた思考力を少しでも取り戻す必要があります。それには、自分が受けてきた知識教育の足かせをはずして、自らの頭を自由にすることです。

(P105)
ベストセラーとは知らずにうっかり買ってしまった一冊。

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