
それはホンモノですか?
若い頃は好きな作家の作品しか読みませんでしたが、それでは偏った思考になるので、近頃は好きではない作家(著述家、思想家、ジャーナリスト……)の作品も手にとるようにしています。ひとえに、ブックオフでの100円文庫本のおかげです(100円なら買っても損した気分にはならないので)。
ということで、少し前に『「常識」の研究:山本七平/文春文庫』を紹介したので、久しぶりに本多勝一氏の作品を読みたくなりました。マスコミを目指したわれわれ世代なら、学生の頃に何冊かはかじったはずです。『日本語の作文技術』なんぞは、いま読んでも参考になるばかりか、日本語にすらなっていない原稿を送ってくるライターに献本したいくらい。「これ読んでイチから出直してこい!」と。
さて、山本七平氏の文庫本についてのこちらのコラムのタイトルが、「それはホンモノですか?」だったのですが、われながら会心の皮肉だったなぁ……。
そんなことはさておき、本多勝一氏です。
最近、山行を再スタートしたこともあって、選んだ文庫は『山を考える』です。これなら山登りのことがメインのはずなので、真面目にジャーナリズムについて考え直さなくても済みそうです。
問題は末梢的な技術ではなく、根底をゆるがすような「眼力」にあるのです。このことは、山に限らず、すべての分野にも共通するでしょう。ジャーナリストにとって、実はこれは大きな励みになるのです。もし対象について専門家と同等の知識がなければ記事を書く資格がないとすれば、ジャーナリストはそれぞれのジャンルに分断され、狭い視野に限定された”何々評論家”へと堕するほかないでしょう。それはやがては、体制に寄生することなしには生きてゆけぬ方向へと堕してもゆくでしょう。そうなれば、対象を根底からゆるがすような報道はできなくなり、それはもはやジャーナリストではなくなりましょう。
(P175)
結局は山のことではなく、ジャーナリズムのことになるわけで
山のことについて読みたいと思っても、そこは本多氏。身をえぐるような言葉が続くこと……。
この一文は、私にとってふたつのことを示唆しています。
つまり、クルマのことを書くにあたって、流体力学をマスターしていなくても、エンジン工学に精通していなくても、根底をゆるがす「眼力」があれば優れた原稿が書けるということです。
クルマのことで根底をゆるがす「眼力」とはなんでしょう。
それはたくさんありますが、実に簡単なことです。そのひとつが、消費者を騙している製品であるか否かを見極める「眼力」です。
このクルマを買えば家族四人が揃って楽しいカーライフを送れますよ、と謳うクルマがあるとして、後部座席の居住性が悪かったり乗り心地が悪くて嘔吐するようなクルマだったら、それはニセモノです。
このクルマを買えばファントゥドライブを心ゆくまで満喫できます、と謳うクルマがあるとして、コーナーで危なっかしくてアクセルを踏めないクルマだったら、それはニセモノです。
このクルマを買えばゴージャスでラグジュアリーが何たるかを体感できます、と謳うクルマがあるとして、乗り心地云々の前に安っぽいデザイン、素材、テクスチュアの内装のクルマだったら、それはニセモノです。
と、まあこれはほんの一例。
こうした事がきちんとわかっていて、それをきちんと言葉にして伝えることができたら、それは読者にとって価値あることでしょう。
そしてワイン評論家でも美術評論家でもなんでもいいのですが、クルマの場合なら自動車評論家に堕すると、体制に寄生することなしには生きて行けぬ方向へ堕するということも、ここに書かれています。まさにそのとおり。
予想していたよりも長くクルマ業界に身を置いていますが、クルマ業界にはそもそも本当の意味での自動車ジャーナリストというのは存在しえません。なのに自動車ジャーナリストという肩書で仕事している人のなんと多いことか。
駆け出しの若い人から自動車ジャーナリストという肩書の名刺をいただくと、どれだけ傀儡ジャーナリストでないか、ちょっと意地悪してみたくなります。
他業界のマスコミの方と少し前に話す機会がありましたが、「自動車業界って、ちょっと特殊ですよね? ジャーナリストの意味がほかとはまったく違いますもんね〜」と冷ややかに言われました。世間での評価も、まあこれに近いものでしょう。ということで、クルマ業界だけはジャーナリストという言葉の意味が違うと解釈したほうがよさそうです。それならばジャーナリストと名乗っても恥ずかしい思いをしなくて済みます。
音楽のことはよくわかりませんが、ジョン・コルトレーンもマイルス・デイヴィスもジャニーズのあれやこれやも「アーティスト」とくくられるのと同じ意味だと捉えるとわかりやすいでしょう。
最初に就職したのは報道系の映像会社でしたが、すでにそのときには新聞すらジャーナリズムからは程遠いものだと思っていましたし、事実そうでした。
本当のことを言えば、いまどきクルマ業界だけでなくてもジャーナリズムなんて有名無実なのが現状です(政治記者なんてその役割からしてもっとも罪が重いともいえます)。
それに、ジャーナリストという肩書を語るということがどれほどのプレッシャーを背負わなければならないか、自分を常に律しなければならないか、どれだけ敵を作らなければならないか、考えただけでも気が遠くなりそうです。私には到底無理。だから私は、「編集者(エディター)」という肩書を好んで使っているのです。
本多勝一氏の本を読んでいくと、「ごめんなさい!」と条件反射的に謝りたくなる言葉ばかり。以前もコラムで懺悔したことがありますが、読者の皆様に本当に価値あるものをお届けできているか(できてないんだけど)、まずはその基本から身をつまされます。
ぬるま湯でぬくぬくしてる自分に反吐が出そうなほど嫌気がさします。
だから本多勝一氏の本をずっと手にとっていなかったのかもしれません。20代、30代、40代で読んでいたら、自分がやっていることがいかにニセモノか、その現実を直視しなければならないからです。
こんな雑誌、作ってられるかー! とならずに済んだのも、この時期に本多勝一氏の著作を読まなかったからです。
しかし、50歳を目前にいま読んでみると、俯瞰的に内容を捉えることもできます。それはそれ、これはこれ、と。そして、自分を叱咤するのです。こうありたいものだ、と。
山を考えるを読んで、西山を考える、という一冊。
『山を考える』本多勝一/朝日文庫
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