2018.09.28
装飾過多な建物外壁を眺むれば
取材で訪れたミラノ。
朝から晩まで取材予定が入っているため、観光するなんて暇はまったくありません。
しかし、仕事の間隙を狙った早朝のドゥオーモは、なかなかにエキサイティングでした。
もちろん、内部に入るようなゆとりはありません。
そこで、ドゥオーモの真後ろを見たくて、一周してみたのですが、ドゥオーモの外観を飾る彫刻を見ているだけでも十分に楽しめます。尖塔の数だけでも100本以上あり、その1本1本に聖人の彫刻が立っています。もちろん、下からは殆ど見えません。
しかしご心配なく。外壁にもたくさんの大理石の像があるので、それを見ていくだけでも超楽しめます。ただし、下から仰ぎ見るというスタイルです。
ただし、ドゥオーモの壁面を飾る大理石の像たちは、ミケランジェロ作のダヴィデ像のように、下から見たときにバランス良く見えるような視覚効果を持って彫られてはいないようです。
というわけで、下から覗き見たら、衣服の下のナニが見えちゃったりしないか、ハラハラしながら仰ぎ見たのですが、ナニは見えないばかりか、そもそも男性像じゃないか! というツッコミを入れながら我に返りました。
魂は細部に宿る、のです。いつの時代も
ここからが本題です。
ドゥオーモをぐるりと一周しながら、わたしが楽しんだ彫刻は、女性や男性の全身像ではなく、一列に並ぶ装飾模様の一部となっている老若男女、さまざまな顔の彫刻です。
五百羅漢像は、さまざまな表情とポーズをしているものですが、すべてが羅漢(釈迦の弟子)です。仮に本当に500体あったとしても、それらは一体の羅漢のバリエーションとも言えるものです。
しかし、ドゥオーモは違います。男もいれば女もいる。人間もいれば天使やドクロ(死神)に得体のしれない動物もいます。なかには、オリエンタルな顔立ちの女性(たぶん)も。
その配列にも規則性を見出すことができません。だから、ひとつひとつ眺めていっても、飽きることがないのです。また、下から眺めるには、ちょうどよい高さです。
そもそもカテドラルという神聖な建物に、意味のない彫刻が施さるなんてことがあるでしょうか。日本の寺社仏閣を考えたとき、そんなことはまず考えられません。
日光東照宮の3匹の猿くらい、世界的にも有名なモチーフならともかく、カトリック幼稚園のたった2年間くらいしかキリスト教に触れていない私では、これらの無作為に並ぶ頭部像から、何かの物語やつながりを見いだせることはもちろんありません。
というわけで、美術を鑑賞するときの「分からないなりに楽しむ」という、いつもの割り切りで、ひとつひとつ眺めながらドゥオーモを一周しました。
いくつこの頭部像があるのかは数え忘れましたが、いま一番会いたいと焦がれている人・ペット……が、この中に必ずひとつあるのだとか(ウソ)。ま、そんなエピソードを勝手に妄想しながらの散歩も楽しいものです。
しかし、ドゥオーモの細部を見分して、ひとつ納得しました。
それは、1900年代以降、なぜ西洋の建築がシンプルなデザインに大きく振れていったか、ということです。あっちにもこっちにも賢人たちの立像が壁に並んでいるさまにお腹いっぱいになってしまうのです。ぐるりとたった1周回っただけで。
(設計も構造計算も)ごちゃごちゃメンド臭いな、もうちょっとスッキリいこうぜ、と、当時の著名な建築家たちが思ったのです。彫刻家といった職人たちへの支払いもしなくて済みます。しかも事前にある程度作った鉄とガラスとコンクリートを組み合わせれば工期も短くて、人工(にんく)もちょっとでいいし、安上がり。それに、設計図にデッサン力は求められれず、定規がればオッケー! てなわけです(もちろん、これもウソ)。
やっぱり、旅には、独り歩きが必要です。なぜなら、どうでもよいことを妄想しながら歩くのって、どうしようもなく楽しいものですから。
▼ドゥオーモの朝の散歩で感じたイロイロ