ART of cycling_二輪書

旅するBD-1、中山道六十九次を行く◎09_深谷

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BD-1で走破した、中山道六十九次の旅の記録。2019年4月25日〜30日の5泊6日をかけたポタリングの様子を宿場ごとにレポートしています。

DAY 1 15:46_深谷

2019.04.25

朽ちた一里塚の大木

颱風で折れたのか、詳細は分かりませんが、治療を施されたような跡は残っています。

熊谷宿を出て17号線を北西へと向かうと、中山道旧道は左へ枝分かれしています。深谷宿まで、中山道旧道は17号線とクロスしながら平行しているのです。100mほど進むと、右手に悲しく枯れて朽ちたケヤキの姿があります。日本橋から17番目の「新島一里塚」です。

平成12年に建てられた案内板によると、樹齢300年以上、高さ12mの立派なケヤキであったことが分かります。「今でも高さ十二メートル」と書かれているので、少なくとも平成12年時点では枯れてはいなかったのでしょう。

遊女に後ろ髪を引かれつつ

右手が深谷市幡羅中学校です

右手に深谷市幡羅中学校が見えてくると、旧道に沿って校庭に植えられた大木が一列に並んでいます。松のような木の姿も認められますが、このあたりは大杉が並んでいたそう。往時の街道の姿を想像しながら走ると、再び17号線とクロスします。

ちょうどこのあたりに「見返りの松」があるらしいのですが。先を急いでいたのでその姿に気がつくこともなくスルーしてしまいました。なにを昔の旅人は「見返り」していたのかというと、なんてことはない、遊女でした。

熊谷宿は飯盛女(遊女)を置いていないという極めて健全な宿場であったため、深谷宿はその反動のせいか、飯盛女が多かったというわけです。江戸からの旅人は、きっと熊谷宿から12km離れた深谷宿へ何とか泊まろうと先を急いだでしょうし、京都方面から江戸へ向かう旅人は、早々に深谷宿で投宿したでしょう、想像ですけど。

この先に「見返り松」が左手にあります。

深谷宿でしっぽりと一晩過ごした旅人が、遊女との別れを惜しんで振り返ったというのが「見返り松」の名の由来です。その見返り松の目の前には現在、県立深谷第一高等学校があるのですが、お隣の県立熊谷高校の方が偏差値が10近く高いのは、なんだか江戸時代からの土地柄を象徴しているようです。

熊谷に飯盛女がいなかったのは、当時熊谷にあった私塾から、塾生の勉学の妨げにならないように飯盛女を置かないように要請があったからなのでした。熊谷の方が硬派だったというわけですね。

17号線を渡って200m少し進むと、右手に常夜灯があります。このあたりが深谷宿の江戸方になります。いよいよ欲望の宿場、深谷宿です。

常夜灯を撮影するために、わざわざ浮世絵ポイントから引き返してしまいました。

◎浮世絵ポイント_深谷之驛

……が、浮世絵に描かれている飯盛女の賑やかさの面影は、どこにもありません。アプリの浮世絵ポイントは現在個人宅で、さらに肩透かしです。そこで30メートルほど先にあった昭和な寂れた看板の前で記念撮影。かつての宿場の飯盛女的な文化は、高度成長期の昭和時代には、温泉街に受け継がれていたともいえなくもないわけで、浮世絵の雰囲気に近づけたかもしれません。

歴史は必ずしも前向きなだけではない

深谷宿は、昭和の空気が残る個人商店などがポツンポツンと並んでいる宿場でした。時代に取り残され昭和のまま時が止まって廃れていく景色が、リアルに所々に残されていて、そろそろ夕暮れ時ということもあってか、妙に切なさがこみ上げてくるのでした。

遺構の跡は、建物のずっと後ろにありそうなのですが、私有地みたいなので遠慮しておきました。

極めつけは、深谷本陣遺構の標柱。どこに遺構があるのか分からないのですが、ポツンと標柱と案内板がひっそりと建っているのです。それも朽ちるに任せて……。

案内板には、「飯島家は宝暦二年より明治三年迄、足かけ六代に亘って、已むなく本陣職を続けざるを得ませんでした」と、仕方なくいやいや本陣職をやっていたという後ろ向きな解説。飯島家の都合などまったく無知な私にとっては、なんとも斬新な解説なのでした。これがリアルな歴史なのでしょう、きっと。

※注:〈  〉内は、交差点名をさします。


◎GoProからの1枚

中山道旧道は、17号線と交差しながら深谷宿へと進みます。

▼ひとつ手前の宿場はこちら

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