ART of book_文庫随想

『「常識」の研究_それはホンモノですか?』

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マスゴミと一般人からの情報の差

インターネットが普及することで、検索すれば、すぐに知りたい情報が手に入るようになりました。それと同時に、誰もが情報を気軽に発信できるようにもなりました。ユーチューバーにインスタグラマー……等々、いままでになかった単語──職業も出現しています。

情報を一部の特権階級・支配階級だけのものでなく、ひろく開示・共有できるようになったインターネットの功績は計り知れません。しかし、その弊害も徐々にいろいろなシーンで現れ始めました。たとえば何か事件が起こる度に、その事件に対してコメントした人の誹謗中傷をはじめ、さまざまな言葉の暴力が横行しています。自分とは異なる主張や意見には耳を傾けないだけでなく、執拗に攻撃をする、拡散して火に油を注ぐ……。仮に正論を述べたとしても、綺麗ごと言ってんじゃねーよ! という具合です。自分の生まれ育った、そして現在所属しているコミュニティや環境で培われた感覚にそぐわないものは、一切認めない・信じないというわけです。

“われわれには違和感を感じる記述・統計・報告など、なかなか受けつけない体質がある。(中略)情報は、自己の感触と違うものほど価値がある。同じなら、ある意味では無用である。だがこの自明のことが無視され、前記の傾向が極限にまで行けば、その人は自己の感触以外は一切信頼せず、他の情報をすべて拒否するか、自己の感触に適合した情報にしか耳を傾けないという態度になって不思議ではない。そして、これは実質的には感触のみであるから、このとき人は盲目同然となり、自己の触覚で知りうる範囲内だけで判断を下して行動に移る。(P116)”

スマホであらゆる情報にアクセスでき、自分の意見を主張できる現在。人はある種の全能感に浸っているのかもしれません。しかし、ネットで拾うことができる情報の多くが、責任の所在が欠落したものであったり、どこかからのコピペであったり、単なる個人のなんら裏付けのない意見であったり……。と、まぁゴミのような情報であることの方が多い。「マスゴミ」と揶揄されるマスコミ業界ですが、そこから発信される情報は多くの人のフィルターを通されていることが多く、責任の所在も明確です。すべてではありませんが、感情にまかせた情報発信ではなく、精査された情報が発信されることの方が多いのです。本来そうであり、そうあるべきものです。

“現代とは、情報化社会だという。しかし情報は、受けとる側にその意志がなければ伝達は不可能である。この前提を無視した上で、その社会に情報を氾濫させ、取捨選択を各人の自由にまかせれば、人びとは違和感を感じない情報だけを抜き出してそれに耳を傾け、他は拒否するという結果になる。それは結局、その人の感触の確かさを一方的に裏づける作用しかないから、情報が氾濫すればするほど、逆に、人びとは自己の感触を絶対化していく。これは結局、各自はそれぞれ自分で感触し得ない世界とは断絶する結果となり、情報の氾濫が逆に情報の伝達を不可能にしていく。それでいて本人は、自分は多くの情報に通じ、社会のさまざまなことを知っているという錯覚はもっている。それが感触に基づく判断を社会的に刺激して、それだけで断定的評価を下す結果となり、情報の受容をさらに困難にする。(P117)”

インターネットなんてない、私が義務教育を受けていた1970〜1980年代でさえ、情報化社会と叫ばれていました。国語の長文読解の題材にもよく使われていましたね。現在は、あの頃とは比べようもないほどの情報化社会、まさしく情報氾濫です。かつてはマスコミその他の発信する情報から、真に価値のある情報をいかに汲み取るかについて書かれていたように思いますが、現在は一般人が発信する情報も取捨選択しなければなりません。それはもう洪水のような量です。そこでは、SNS上での個人のつぶやきから、大手新聞社や通信社が発信するニュースまで、すべて同列に扱って情報を選り分けなければなりません。しかし、自分の感触とそぐわないものを一言に断じてしまうのは、控えなければなりません。そして、その情報が本当にオリジナルであるのか否かも見極めなければなりません。

希薄なコピペの罪悪感

そんなことを登戸の事件の報道をテレビで見ながら考えてしまいました。
付け加えると、テレビで「SNSでこんな意見が言われています」という情報を流すのはまったく無駄。SNSでのつぶやきをテレビでいかにも国民大多数の意見です的な情報に仕立て上げるようなことをするから、マスゴミと言われてしまうのです。

話はまったく変わります。
先日、こんなことがありました。
ある人の協力を得て、世界初となる取材を行うことができました。その取材を行うことができたのは、長い時間をかけて築いた取材協力者との信頼関係があってこそでした。
つまり、そこで撮影された写真は、私が作ったページ(雑誌)でしか見ることができないものなのです。
しかし、雑誌の発売後、なぜかその写真(カット)がネットに上がっているのです。雑誌のページを写メしたものではありません。いかにも自分で取材したかのようなテキストと一緒にその写真が使われていたのです。
社内のネット専門の部署の人に調べてもらったら、そのWEBマガのようなページは、個人で運営しているものでした。いかにもデザイン的にはそれらしく作っているのですが、個人のブログレベルを超えないもの、と云うことです。
そしてそのサイトでは、以前にも他人のサイトのテキストをコピペして、炎上していることもすぐにわかりました。ただ何気なくネットを閲覧している人には、そのサイトがそんな問題を抱えているものだとはわからないでしょう。ページビューも相当数あるようで、それでかなりの額を稼いでいるようです。こうなると、こちらも法的措置に出ざるを得ません。総務の担当者にお願いして、きちんと弁護士を通じて警告を送ってもらいました。

そのサイトでの無断転載の写真は、無事に削除してもらいました。しかし、問題はここから。そのサイトを運営している個人から、「某メーカー(海外)のサイトから写真を転載した。しかし、その某メーカーサイトの写真はまだ削除されていない。これはいかなることか。●月●日●時までに回答せよ」という旨のメールが総務宛に送られてきたのです。

その個人は、自分の運営するサイトの写真やテキストは、自分が取材したもの、もしくは流用したものも許諾を得ているものだけであるということを謳っていたのです。写真には私が作っている雑誌のロゴが入っているのに、その雑誌からの許諾を得ずに勝手に転載しておいて、何を言っているのかもはや意味不明です。

万引きを現行犯逮捕されておいて、「隣人も万引きしました。私だけ捕まえて、これはどういうことか。隣人を逮捕するのか否か、回答せよ」と言っているのと同じです。しかし、この程度の常識しか持ち得ない人が、他人様のふんどしで金を稼いで、あげく逆ギレするというのが、現在のネット社会の恐ろしいところなのです。個人が情報を発信できるようになって、ゆがんだ全能感に浸っている人がいかに多いことか。

まとめサイトみたいなものも、言うなれば同じようなもの。
ネットが発達して便利になって、だれもが等しく情報にアクセスできるようになったように思いますが、むしろ無駄な情報が多すぎて、大切な情報に辿り着けないケースも増えているように思います。そして民衆を煽動することも容易になったような気もします。

“(前略)いわば先見性を誤ったらどんなに全社員が努力してもダメ、たとえ先見性が正しくそれに基づく企画そのものは正しくても、著者、販売店等との連携が的確になされねばダメ、その連携がうまくいっても人材面・資金面で社内が整備されていなければダメ、この三つのダメを何とかすべく、全員が特攻隊のように小売店に体あたりしてもダメ、ということである。私はある出版社の倒産を見て、ちょうど太平洋戦争末期だなと思ったことがある。(P206)”

いつの世も、出版社に限らずダメになっていく会社には、共通のものがあると云うのが分かった一冊。

ちなみに、海外サイトにも後日警告文を送りましたが、こちらはすぐにお詫びのメールが届き、無断転載した写真も削除されたようでした。

『「常識」の研究:山本七平/文春文庫』

自分が持っているカバーとは違うデザインです。

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