中山道旧道を走って考えたこと
『BMW CLASSIC』というムックをつくりました。
ノイエクラッセから1980年代のBMWがメインとなる雑誌です。
そのなかで、自分のE30M3を久しぶりに大規模整備したのですが、その仕上げとして中山道旧道をE30M3で旅して来ました。
どうして中山道旧道だったを選んだのか、それは雑誌を読んでいただくとして、利便性や速さを求めるのなら、最新モデルのクルマの方がいいに決まっています。
それなのにどうして30年以上もむかしのクルマに乗り続けるのか、その理由を考えながら、中山道旧道を京都まで走ってきました。
以下、E30M3を走らせながら思念したことのまとめ。
……ここで「弓道」と「アーチェリー」を比べてみると分かりやすい。アーチェリーは的に矢を当ててポイントで競うスポーツだ。一方の弓道は的を射ることよりも精神的なものに重きが置かれる。他人に勝つのではなく己に克つことが大切と言って差し支えないだろう。そのため弓道を禅に通じるものとして解釈することもできるだろう。
サーキットで人より速く走るためのクルマ、公道で衒示的欲求を満たすためのクルマは、いうなればスポーツ的だ。他者に対して優位に立つことに目的が置かれている。そのためには常に最新モデルでなければならないという条件が付いて回る。スーパーカーの世界では、最新モデルが常に衒示的欲求を満たす近道で、そしてハイパフォーマンスである。しかしE30M3は、今となっては袖ヶ浦フォレストレースウェイでのタイムはリーフのハイパフォーマンスモデルより1秒速い程度だ(中谷明彦氏談)。数値的にはもはやけっして「速く」ない。
E30M3を速く走らせることはタイムを競うことではなく、上手く操ることを意味している。アクセルペダルとスロットルが直接ワイヤーで繋がっているE30M3には、現代のクルマのように電制による介入がほぼ皆無だ。最近のスーパーカー&スポーツカーはすべてこの電制による制御が介入している。特にコーナリングやブレーキングの際に顕著だ。だから誰でも運転でき、誰でもある領域までは速く走ることができるようになった。同じドライビングスキルなら、どれだけパワーがあり賢い電子制御デバイスが装備されているかで速さが決まるというわけだ(つまりどれだけお金を積むかということにつながっている)。
E30M3はそうではない。己のドライビングスキルがそのまま反映されるのだ。アクセル操作の微妙な加減は、その日の気分も大きく左右されるだろう。その意味では自らの精神状態もコントロールする必要がある。これは弓を射る前の弓道と同じではないか。クルマの方はといえばスロットルリンゲージピロボールのちょっとしたことでスロットルレスポンスは激変し、フロントロアアームボールジョイントのちょっとしたガタで麗しいステアリングフィールに影が差す。運転する前からクルマとの対話も必要となってくるのだ。
E30M3で走ることに没頭していくと、E30M3から「もっと速く! もっと先へ!」と語りかけてくる瞬間が訪れることがある。実はそれはE30M3が語りかけてくるのではなく、自分自身との対話であるのだ。弓道では矢を放つ瞬間は、機が熟すると自然に訪れるという。雑念を払いのけ、自然と無心・無我の境地に入った状態のことを指すのであろう。的に当てようと思っているようではこの境地には入れない。
宿場間を移動する区間のちょっとしたワインディングで、E30M3に人馬一体感を感じる瞬間があった。スピードを出していたわけではない。撮影のこともフッと忘れ、ドライビングにスッと集中した瞬間である。ギアチェンジやブレーキング・アクセル操作とステアリング操作が淀みなく一連の動作として流れたとき、気持ちよくコーナーを抜けたことに後になって気がつくのだ。馬籠宿へ向かうワインディングを流しているときに、「ああこれか」とついに思い当たった。弓道では自然な「離れ」(矢を放つこと)には余韻があり、これを「残心」というが、E30M3でワインディングを走った後にはまさしくこの残心──清々しさが余韻となって残るのだ。このE30M3との完全なる自己の同一化──車雑誌的に表現すると、E30M3がまるで手足のように感じた瞬間──のためにE30M3に乗っているのだと。つまり、自分との対話のためのツールなのだと。
もちろん最新の電子制御満載のスーパーカー&スポーツカーでこの境地に達することもできる。あらゆる電子制御の介入を脳内にインプットして瞬時にそれを引き出し、100%活用できる場合だ。ただしこれができるのは一部のプロのレーシングドライバーだけであり、さらには公道での速度域では十全とはいえない。私のような素人では遠くその域には及ばないというわけだ……
と、まあ、こんなことを思念しながら中山道旧道を日本橋から三条大橋までE30M3で走ってきたのでした。この旅の前に読んだのが、『弓と禅』でした。
無心になれば本物
「正しい道は」と師は大きな声で言われた。「目的がなく、意図がないものです。あなたが、的を確実に中てるために、矢を放すのを習おうと意欲することに固執すればするだけ、それだけ一方もうまくいかず、それだけ他方も遠ざかるのです。あなたがあまりに意志的な意志を持っていることが、あなたの邪魔になっています。意志で行わないと、何も生じないと、思い込んでいます
(P95)
無心で雑誌をつくるのは到底無理なので、無心で文章を紡いでみようと思った一冊。
『弓と禅』オイゲン・ヘリゲル_魚住孝至 訳/角川ソフィア文庫