BD-1で走破した、東海道五十三次の旅の記録。2018年3月23日〜28日の4泊5日をかけたポタリングの様子を宿場ごとにレポートしています。
DAY 3 8:06_日坂宿
2018.3.25
簡単な朝食を済ませ、意を決して小夜の中山へ向かう坂道にチャレンジ。
いきなり急坂からスタート。S兄ィにまたしても先に行ってもらうことに。
左カーブの先に右カーブがあるのですが、あっという間にS兄ィの姿はコーナーの先へ消えてしまいました。
そしてS兄ィの姿が消えた右コーナーへ辿り着くと、道路工事のために斜面が削り取られ、視界が開けておりました。いま私が進んでいる東海道旧道とどのようにクロスするのか知りませんが、たぶん、こうして東海道旧道も姿を変えていくのです。
その先は、ただひたすら登り坂です。左手には茶畑が広がっており、さらに登っていくと道の両側が茶畑に。東海道旧道は茶畑の中を貫いていました。
小夜の中山を早朝にのぼる
小夜の中山は、佐夜の中山とも書き、ピークは252mの峠を指します。初めてBMW i8で通過した際は、道幅が狭いので、どこまで進めるだろう? と不安に思ったものですが、BD-1ならその心配はありません。その代わり自分の脚で登らなければならず、「自転車で走れるところは、ペダルをこいで走破する」という自分で立てた旅の掟が、ここでも自分を苦しめるのでした。
綺麗に咲いている水仙も、目に入ってきません。たった252mなのに、まったくBD-1は登っていかないのです。ああ、うらめしや58T。
うらめしやといえば、小夜の中山には「夜泣き石」という、男に斬り殺された妊婦の霊が石に移り、夜になると泣くという言い伝えが……。ああ、朝でよかった。
30分以上かかって、坂の入口からたった1.2kmほどの場所にある久延寺に到着。その門の前にS兄ィは座って待っていてくれました。その久延寺の隣の茶屋「扇屋」に、小夜の中山名物の「子育飴」と云うものがあるらしいのですが、この名物が夜泣き石伝説と関係があるらしい。言い伝えの妊婦は亡くなりましたが、斬られた切り口から子どもが生まれ、久延寺の和尚にその子どもは育てられたというのです。そのとき、和尚は飴をしゃぶらせて子どもを育てたのだとか。つまり、それが子育飴。なるほど。
久延寺の前にある桜は、ちょうど満開。『桜の樹の下には屍体が埋まっている』と書いたのは梶井基次郎でしたが、小夜の中山で見る桜は、なんだかその一文の印象がぴたりと当てはまるようです。ただし、肢体は腐乱しておらず、刀で切られ、鮮血が迸る屍体ですが……。
そうそう、後から知ったのですが、小夜の中山は、箱根峠・鈴鹿峠と並ぶ東海道の三大難所だったのでした。越すに越されぬ大井川をいとも容易くパスしましたが、小夜の中山はそうはいかなかった、ということです。
多少のアップダウンはありますが、久延寺が小夜の中山のピーク。茶畑の中を快適に進みます。
「車両通行不可」の標識を見て、BMW i8の時は早々に1号線へと迂回しましたが、今回は突き進みます。
その先に浮世絵ポイントはありました。
浮世絵ではまさに言い伝えの夜泣き石が描かれています。
日坂は下りが命がけなのでした
果たしてクルマが通れないほどの道ってどんなだろう? とワクワクして進んでいくと、確かに、いままで通ってきた道でもっとも勾配がきつい急坂でした。箱根峠や鈴鹿峠と並ぶ難所というのも、ここに来て納得。
今回は西へ向かっていたのでこの急坂を下りましたが、京都から日本橋へと向かう場合、とてもBD-1のペダルを漕いで登り切ることはできなかったでしょう。
i8だとフロントスポイラーを擦っていた可能性大。迂回したあのときの決断は正解であったことを確認。とはいえ、ジムニーとかならぜんぜん余裕で通行できたと思います。
日坂バイパス(国道1号線)をくぐって、日坂八坂線(県道415号)を渡ると、そこが日坂宿です。何軒か昔の宿場を伝える古い建物が点在していますが、もうそれくらいでは心がときめかないほど、東海道五十三次の旅に慣れてしまっていました。
●GoProからの1枚
注:〈 〉内は交差点名を表します。
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