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旅するBD-1、東海道五十三次を行く◎28_見付

BD-1で走破した、東海道五十三次の旅の記録。2018年3月23日〜28日の4泊5日をかけたポタリングの様子を宿場ごとにレポートしています。

DAY 3 11:35_見付宿

2018.3.25

「江戸の古道」の急坂を上りきると、しばらく日本中どこにでもありそうな普通の生活道路が続きます。

見付宿場通りに出てまっすぐ進むと、右手に近代建築が目に入りました。

大判焼きの文字が見えたら旧見付学校です。

「旧見付学校」です。

名物などはスルーするのですが、建築に目がないため、休憩がてらふらふらと敷地内へ。
1875年に竣工した旧見付学校は、現存する日本最古の木造擬洋風の小学校校舎と言われてます。土台となる石垣は遠州横須賀城の石垣を再利用したと言われています。

花と団子より大判焼き

白い外壁に似合う、白い桜。
糖分補給。大判焼きは粒餡派です。熊本では蜂楽饅頭ともいいます。

見事な桜が咲いていたので、しばしお花見休憩。旧見付学校入り口の隣りにあるお店から大判焼きをS兄ィが買ってきてくれました。粒餡の大判焼きを頬張りながらお花見です。

川原の石を積み上げた石垣。遠州横須賀城の石垣を使ったとのこと。

さて、この石垣は玉石積みという川原石を用いた積み方。ひとつの玉石のまわりを6つの石で囲んだ積み方とのこと(いや、5、6個だったかな……)。ベンチに座って休んでいたら、旧見付学校を管理している方が親切にも教えてくれました。

旧見付学校の前を通っている旧東海道は、そのさき400mほど行ったところで直角に左に折れます。天竜川の渡しに向かうのに、わざわざ遠回りするようなルートなのです。「なぜだか分かります?」とその管理の方に訊かれたのですが、ここは「さあ、どうしてでしょう?」と切り返すことに。こんなとき、知っていても(もしくはおおよそ見当がついていても)答えるのは野暮というものです。

現在の磐田駅近くにあった中泉の代官所で、旅人を監視するためだとか。

さて旧東海道にこだわらなければ、そのまままっすぐ天竜川へ向かうのですが、ここは迂回することに。

天竜川の渡船場までは2ルートあります

東海道中膝栗毛では、北八は馬子のひく馬に乗って、この正ルートを通って天竜川の渡船場へ。一方の弥次郎兵衛は、徒歩でまっすぐ天竜川の渡船場へ向かうことになっています。

この近道ルートは馬では通れない道だったようですが、池田近道ともいわれ、江戸時代から使われていたんですね、考えることは同じです。ただし、こちらのルートは、道中奉行が通行禁止の立て札をたてていたそう。そうはいっても、楽したいのはいつの時代も同じですね。

天竜川に出るとそこが見付宿の浮世絵ポイント。

天竜川渡船場跡の碑がありました。

少し南下して、橋で天竜川を渡ります。ここで少し問題が発生。
アプリが示す東海道旧道のルートは、県道261号線(磐田細江線)の橋を示しているのですが、その橋のたもとまで来てみると、対向2車線で、決して広いとは言えない道幅。さらに交通量が多いのです。

1km弱の距離のあるこの橋を渡るのは少々危険が伴います。どうしたものかと見渡すと、さきほどくぐってきた国道1号線の橋がすぐ隣りにあるではないですか。しかも自転車が通っている!

新天竜川橋には広い歩道があるが、左手の天竜川橋には歩道がないので、自転車で通るのは危険。

国道1号線の橋には歩道が完備されていて、しかもその歩道の広さよ。安全に天竜川を渡ることができました。

ここがホントの東海道のどまんなか

中野町マップには、「東海道」江戸と京のどまんなか、と表記。袋井宿では「どまん中」という表記だったので、そこは使い分けされているのでしょう。

そして天竜川を渡りきったところで、またまた発見。真ん中アピールのガイド。
宿場の数ではなくて、ここは距離的にちょうど真ん中とのこと。京へも江戸へもちょうど六十里とのこと。そこで名付けられた地名が「中野町」。

江戸と京のちょうどまんなか、そこで中野町。

距離で真ん中といわれたほうが、自分の足で旅している身にとってはわかりやすい。ついに半分。要した日数は2日半。これで本当に5日間でゴールできる目算が立ったのでした。

ついに残り半分!

さて、いよいよ次は浜松。東名高速なら浜松まではたったの●時間。文明の進歩を今さらながら噛み締めていたのでした。


●GoProからの1枚

ぽつんと松。これも東海道旧道の名残り。

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