ART of book_文庫随想

『スカートの下の劇場 & セクシィ・ギャルの大研究_結論。パンツ見えたっていいじゃん!』

女性は、男性のためと自分のためにパンティを選ぶ

以前、『パンツが見える。』についての随想で、「だれか女性の学者さんで、『パンツを見せない』というタイトルで女性からの視点でパンチラについて書いて下さい」と書いていたが、そのときすでに対となる文庫が頭にありました。それが『スカートの下の劇場 ひとはどうしてパンティにこだわるのか』である。

著者は数年前に東京大学の入学式での祝辞が話題になったのお方である。女性である。そして学者である。女性学者は、パンティについてどのような見解を持っているのであろうか。

女がパンティを選ぶ時の基準は、二つあるように思える──一つは言わずもがなのセックス・アピール。もう一つはナルシシズムである。別な言葉で言いかえれば、それが男にどう見えるか、ということと、それが自分自身にどう見えるか、ということである。そしてこの二つはしばしば一致しない。そして私には、男たちがセックス・アピールという基準の方を過大評価しているように見える。

スカートの下の劇場(P22)

なるほど。勝負下着というやつは、「男にどう見えるか」という目的に最大限の効果を得るための下着ということであることが分かった。この場合の「男」とは、女性がターゲットとする男性を指している。なぜならば、コットン100%の白いパンティに異様に反応する男性もいれば、黒のレースのパンティに異常に反応する男性も存在するからだ。

私の知る限り、前者の男性は黒レースパンティは嫌悪し、後者の男性は木綿の白いパンティ(というかパンツ)にはほぼ反応しない。

ここで注目したいのは、女性が「自分自身にどう見えるか」という理由でパンティを選んでいる点である。大抵の場合、女性が自分のために選ぶパンティは、男ウケが悪い。

女の子たちが夢みたいないろいろなパンティに魅かれる気持ちは、ほんとうはナルシシズムそのものです。もっとも、確かにナルシシズムは性的目覚めのひとつのステップですし、もしかしたら究極のゴールなのかもしれません。むしろ相手の要る性愛というのはただの媒介にすぎなくて、本当はオートエロティシズム(自己性愛)こそが最後のゴールなのかもしれません。

スカートの下の劇場(P82)

ナルシシズムのためにパンティを女性は選ぶそうだが、パンティなるものがない時代もあったわけで、それがどのようにして女性のナルシシズムを満たすための装置になったのか、そこが知りたいと思う。

結局は、高価なランジェリーを身にまとうことが、たいていの男性を喜ばせることでもあったわけなので、その刷り込みとして、女性はパンティにナルシシズムを得たのだとしたら、結局は男性側の価値観から、パンティに何らかの期待をかけていると思われる。

「ナルシシズムが性的目覚めのひとつのステップ」と、著者も書いている通り、結局はノーマルであろうが同性愛であろうが、他者にどう見られるかという前提がなければ、パンティにこだわったりしない、ともいえるだろう。著者が次のように述べる通り、結局は男性(他者)にどう思われるか、ということが女性には必要なのである。

身体像の形成というものは女の子にとっては他者が、もっとはっきりいうと、男性が与える身体像を内面化していくプロセスといえます。身体像は、自力で自己調達できません。何らかの形で社会が与えるものですけれど、女の場合はそれは非常にはっきりしていて、男性の与える価値によって決まります。男の子の場合は、女によって身体像が与えられるということは考えられません。

スカートの下の劇場(P166)

さて、ここで「男の場合は、女によって身体像が与えられるということは考えられません」と、著者は述べているが、果たしてそうか。少なくとも現在は、女性に気に入られるように、己の肉体をあわせている男性が多いのではないだろうか。

腹筋がシックスパッドに割れている男性の、いったいどれだけの人が、純粋に自分だけのために〈割れた〉腹筋を維持しているのだろう……。たしかに、鍛えられた肉体は、とどのつまりは自分のため、ということになるが、そこには、他人の目によるフィルターがなければ、日々の筋肉トレーニングなんて続けられるものなのだろうか。

男性の場合、人(大抵の場合女性)にどう思われるか、これそが肉体をトレーニングする最大の理由だと思う。スポーツなどでもそうだろう。他人の目がまったくないところで──つまり、だれからも顧みられず評価されないとしたら──プロのスポーツ選手なんてモチベーションを保てるのだろうか……。

ということをオトコ目線から考えてみたら、やっぱり男性も他者(特に女性)によって身体像が与えられるということになる。少なくとも私の場合、小綺麗にしようと思うのは、他者(特に女性)の目が気になるからだ。その証拠に、人と会うことのないテレワーク中は、髭を剃るなんてこと、めっきり減ってしまったのでした。

男性も女性の眼が、とっても気になるご時世です

男は、自分と同種の個体に対しては「らしく」ふるまうことを要請されるのに対し、女はもっぱら男に対して「らしく」ふるまうよう、強制される。女のふるまいは、どんなものでも、異性に対する性的メッセージ──誘いかけ、逃避、挑発など──として読みとられる。
というのは、女のしぐさを読みとる文法を作るのは、男のほうだからだ。

セクシィ・ギャルの大研究(P9)

現代、同じことが男性にも言える時代になったのかもしれない。「男はもっぱら女に対して『らしく』ふるまようよう、強制される」とも言えるのではないだろうか。

確かに、男は同種の個体に対して「らしく」ふるまうのかもしれないけれど、それは女性でも同じような気がする。私の知る限り、男性より女性の方が、同性に対してどのように自分が見えているかを意識しているように思うのだが、世間一般的にはどうなのだろう?

話は脱線するが、私自身が同性に対してどのように思われているのか、無頓着なだけかもしれない。仕事の能力(編集者という職種で見た場合、手掛けた作品など)は三流だけれども、政治的な手腕で利権を握っている人は、実はこの世の中たくさんいる。こうした人の特徴は、同性がどう自分を見ているかを常にリサーチしているところにある。簡単に言えば、仕事の質を向上するのではなく、自分の立ち位置を常に気にしてお勤めしている、という人のことだ。

自分の場合、同性にどう思われていても意に関していないところがあるがゆえに、政治的に出世出来ないんだろうなぁ、ということは、常々感じていたわけだけれども……。というか、自分が表現して出来上がったものがどう評価されるかに関心があるので、限られた人生を余計なことに費やしたくない、というのが率直な本音だったりします。

こうした私見を十分に考慮したとしても、現代において「男は、自分と同種の個体に対しては『らしく』ふるまうことを要請される」という時代ではないような気がする。それこそ、社会的な女性の地位が向上したのではないだろうか(希望的観測)。

結局、パンティは関係ない

女はだれでも性的メッセージを発信している。こう言うと、きっと、「あたしは男に媚びてなんかいないわよ」とお怒りになる方もいるに違いない。
しかし、そうは言っても、男とは違ったふくらんだ胸、まるい肉づきのいいおしりを持っている以上は、自分のセックス・アピールを否定することはできない。また、女らしさを表わす第二次性徴がいやで、ジーンズのようなユニセックス・ファッションを身に着けてみても、ジーンズがぴっちり食いこんだおしりは、ますますセクシーに見えるというあんばいだ。

セクシィ・ギャルの大研究(P48)

これを読んで、幸田文の文章で、縞模様の着物を着ることをたしなめられる一節があったのを思い出した。たしか、縞模様のだと、胸のふくらみなどが強調されるために、男性を不用意に刺激してしまう、ということだった。

現代においては、男性がかつてほど着物を着ている女性に性的興奮を覚えることはないだろう。それが故に縞模様でもそれがセックスアピールになることはほぼない。

これは、明治・大正・昭和初期の男性、がジーンズを履いた女性に性的興奮を、現代のわれわれと同じようには感じないであろうのと同じだ。

『パンツが見える。』の随想でも書いたが、つまり、女性がどんな格好をしようが、時代の風俗や価値観に合わせて、男の突進欲は刺激され、掻き立てられるのである。時代によって、性的アピールの記号は当然変化する。

「女はだれでも性的メッセージを発信している」ということは、つまりこういうことなのだ。だから、ナルシシズムのために選ぶパンティと同じく、パンツが見えそうな短いスカートを履いたり、露出の高い服装をする女性は、〈男に媚びるためではなく〉、〈自分のため〉に〈ナルシシズム〉を満たす目的で、そのような服装をして電車に乗り、駅の階段を駆け上がったとしても、それはもうれっきとした性的メッセージを強烈に放っていることになる。

そして、ナルシシズムのために選ぶパンティと同じく、とどのつまりは、男性側の価値観からスタートしていると言わざるを得ない。

ということで、当初の「どうして、パンツが見えてしまうかもしれない恰好をわざわざ選んで電車に乗るのだろう」という疑問は解けました。そして、女性学者もこう指摘しています。

一枚の垂れ幕は、かえって男たちの性的想像力をかきたてる。見えるか見えないかのすけすけパンティをはいた日本のビニ本ポルノのほうが、あっけらかんとした欧米のハードコア・ポルノより、もっとわいせつなのはそのためである。
また、よくミニスカートの女性が、駅の階段を上がるときにハンドバッグでうしろを隠したり、椅子に座るときに、すそを引っぱったりする姿に、なんとなくいやらしさを感じたりすることがあるのも、同じことだろう。

セクシィ・ギャルの大研究(P056)

ハンドバッグなどで後ろを隠す仕草そのものに、すでに性的メッセージがこめらえているので、どうか短いスカートを履いた皆さんは、堂々とエスカレーターに立つか、階段を登ったほうが無難です。

あ、でも、見えそうで見えない点ですでに性的想像力をかきたてるので、それだけでわいせつに見えちゃうのは仕方がないようですけれど……。

最後に、ファッションは時代とともに変化していくもの。欧州ではかつて、お乳をポロンと見せていたのが最新トレンドであった時代もありました。そして、インナーがアウターになっていく傾向もあります。

つまり、パンツ一丁で闊歩するような世の中になれば、パンティにときめく男性もなくなることでしょう。

それはそうと、駅の階段を登る女性すべてが、「うしろの中年オヤジ、私のパンツのぞいているな」と思っているんじゃないかと、勝手に自意識過剰だったということが分かった2冊。いつの世も、男と女、どっちもどっち……ですね。

『スカートの下の劇場 ひとはどうしてパンティにこだわるのか上野千鶴子/河出文庫
『セクシィ・ギャルの大研究 女の読み方・読まれ方・読ませ方上野千鶴子/岩波現代文庫

膝上丈のスカート・三編みお下げ、って、世の大半の日本男子は想像力が掻き立てられる??? あえてセーラー服にしていないのかもね、いろいろ問題生じるので。
クロスした足首の間の背景が「抜いてない」のは、「抜けないよ」というメッセージなのでしょうか??? どうでもいいけど。

▼パンティに関する考察は、ここから始まりました。

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